ジェシー・オーエンスは、世界一速い男であるウサイン・ボルトやカール・ルイス、マイケル・ジョンソン、タイソン・ゲイなど名立たる選手が尊敬しているという。80年前の1936年(昭和11年)にナチス・ドイツが開催したベルリン大会に出場し、あのアドルフ・ヒトラーの鼻を明かした。
陸上界の常識を変えた英雄ジェシー・オーエンス(1913~1980)は、アメリカ・アラバマ州で農業を営む両親の元に生まれた。貧しい生活だったが、1933年(昭和8年)に足の速さを買われ陸上選手としてオハイオ州立大学に入学。目指すは3年後のベルリン大会。トレーニングに打ち込んでいたオーエンスだったが、黒人のオーエンスはシャワーの順番も決まっており、後に回されていた。さらに、バスでは有色人種専用の席。当時のアメリカでは人種差別が社会全体に根強くあり、公の場所でも平然と行われていた。
出場したアメリカの競技会でも黒人のオーエンスにはブーイングが起こっていた。ところが100ヤード(約91m)走でいきなり世界タイ記録で優勝。続く走り幅跳び・220ヤード(約201m)走・ハードル走では世界新記録で優勝。わずか45分の間に3つの世界新記録を更新した。差別的だった観客たちまで魅了した。この活躍でジェシー・オーエンスの名は一気に全米に広がった。オリンピック出場に手が届くところまできたが、ベルリン大会への出場反対デモが多発していた。ヒトラー率いるナチス・ドイツはユダヤ人を迫害、後に600万人ものユダヤ人を虐殺した。人種差別が横行するドイツで開催されるオリンピックに反発していたのだ。そんな中、オハイオ州の黒人議会議員が現われ、差別されている黒人の代表としてオリンピックをボイコットし、ナチスへの抵抗を示すように迫られた。心が揺れるオーエンスだったが、彼の父親は「息子がオリンピックに出なくても彼らは気づかない。どうせ何も変わらない」と言い、さらにケガをして出場できないライバル選手からも「俺の代わりにヒトラーの鼻を明かしてほしい」と言われ、金メダルを取ることがナチスへの何よりの抗議になると考えるようになり、差別を分かった上であえてベルリン大会に参加する道を選んだ。そして伝説が生まれる。
ヒトラーのせいで悪いイメージがあるベルリン大会だが、聖火リレーはベルリン大会で初めて行われた。オリンピックはナチス・ドイツの国力を世界に見せつけるための舞台でもあった。オリンピックのために作られた会場には10万人の観客が集まり、ナチス式の敬礼で始まった。ナチス・ドイツが政治的宣伝で始めたのが聖火リレーで、そのルートはギリシャのオリンピアからドイツのベルリンまで。一説にはこの聖火リレーは次の戦争の下見だったと言われている。ナチス・ドイツが作った異様な雰囲気の中、競技場に立ったオーエンス(当時22歳)は、100m走を10秒3のタイムで優勝し、金メダルを獲得した。優勝者はヒトラーと握手をし、記念写真を撮ることになっていたが、表彰後、VIP席に案内されたオーエンスは、ヒトラーに会うことさえ許されなかった。金メダルをとっても黒人ということで差別を受けたのだ。次は走り幅跳び。ドイツの強豪選手が予選で好記録を連発する中、プレッシャーを感じたのか2回連続のファウル。あと1回失敗するとそこで失格となり決勝に進むことができない状況に。そんな絶体絶命の時、ライバルの白人選手であるドイツのロング選手が踏み切る位置をアドバイスしてくれた。ドイツ人でしかも白人の選手が黒人のオーエンスを助ける姿は、当時としては衝撃的な光景だった。彼のおかげでオーエンスは見事決勝に進出し、決勝では8.06mのオリンピック新記録で優勝した。人種の壁を超えたスポーツマン同士の友情により2つ目の金メダルを獲得することができた。さらに200m走でも断トツの速さを見せつけ、3つ目の金メダルを獲得。人種の壁を超え、観客たちも熱狂。その後、白人とチームを組んで出場した400mリレーで4つ目となる金メダルを獲得した。人種差別を受け、出場すら危ぶまれたオーエンスは周囲の期待以上の活躍を見せ、ベルリン大会に出場することで見事にヒトラーの鼻を明かしたのだった。
オーエンスにアドバイスをしたドイツのロング選手はドイツの行き過ぎた人種差別に嫌気がさしていて、さらにオリンピックが政治的に利用されていることに疑問を持っていた。人種や肌の色に関係なく、純粋にスポーツマンとして、正々堂々とオーエンスと戦いたかった。アドバイスをしたロング選手は2位で、オーエンスにアドバイスをすることで金メダルを逃した。しかし、それ以来2人は親友になり文通をしていた。その後、ロング選手は第二次世界大戦で銀メダリストにもかかわらず最前線に送られ、30歳の若さで亡くなった。一説にはオーエンスにアドバイスしたことがヒトラーに対する反抗とみなされ、最前線に送られたとも言われている。
ベルリン大会で4個もの金メダルを獲得したジェシー・オーエンス。アメリカに帰国すると大観衆に迎えられ、一躍英雄となった。ところが、オーエンスのメダル獲得という快挙についてホワイトハウスや政府の公式声明は一切なかった。それほど当時のアメリカには人種差別が根強く残っていた。帰国直後こそ熱狂的に歓迎されたオーエンスだったが、人気はすぐに下火になり、お金に困ったオーエンスは馬と競争させられるなど見世物的な仕事で稼ぐほかなかった。しかし、オーエンスの偉大な業績は未来につながっており、59歳になったオーエンスが若手選手の育成の場で出会ったのが当時は小柄だった11歳のカール・ルイス。「努力すれば大男でも負かすことが出来る」とオーエンスに励まされ、1984年(昭和59年)のロサンゼルス大会で、100m・走り幅跳び・200m・400mリレーでオーエンス以来となる金メダル4個を獲得。偉業を成し遂げた。
ベルリン大会から40年後、オーエンスはようやくホワイトハウスに招かれた。その時、当時のフォード大統領は「1人のアメリカ人選手が優れた能力には人種や政治的な境界などないことを証明してくれた。その人物こそジェシー・オーエンスである」と述べた。ようやく公の場で認められ、真の金メダルを手にすることが出来た。ベルリン大会の次の1940年と1944年は第二次世界大戦のためにオリンピックは開催されなかった。もし2回とも開催されていたら、オーエンスはウサイン・ボルトより前に3大会連続で金メダルを獲得していたかもしれない。そんなオーエンスは実話映画「栄光のランナー 1936ベルリン」にもなっている。
2016/10/19
カテゴリー「スポーツ」