明治から昭和時代の思想家・評論家・作家である平塚らいてう(ひらつか らいちょう)の1971年(昭和46年)の忌日。
1886年(明治19年)2月10日、現在の東京都千代田区五番町に3人姉妹の末娘として生まれる。本名は明(はる)。漢字で「平塚雷鳥」と書く場合もある。日本女子大学校(現:日本女子大学)家政科を卒業。
在学中より人生観を模索し続けるうちに禅に出会い、禅の修行が彼女の自我の確立に大きな影響を及ぼす。卒業後、生田長江(いくた ちょうこう)主宰の閨秀(けいしゅう)文学会に参加、そこで知り合った作家・森田草平(もりた そうへい)と1908年(明治41年)に心中未遂事件「塩原事件」を起こす。世間を驚かせ、その名が知られる。
この事件を機に、性差別や男尊女卑の社会で抑圧された女性の自我の解放に興味を持つようになる。生田長江の強い勧めで、1911年(明治44年)に日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜(せいとう)』を発刊。創刊の辞「元始、女性は大陽であった」がスローガンとなり、以後女性解放・平和運動に尽くす。
年下の画家・奥村博史(おくむら ひろし)と恋愛、同棲するが、あえて家族制度の下での婚姻手続を踏まない共同生活を実行し、これも話題となる。1918年(大正7年)から翌年にかけての「母性保護論争」では、「女権主義」の立場にたつ与謝野晶子(よさの あきこ)らと対立し、「母性主義」を唱える。
市川房枝(いちかわ ふさえ)、奥むめおの協力を得て、1920年(大正9年)に日本初の婦人運動団体として「新婦人協会」を結成。「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための活動を行う。
第二次世界大戦後は反戦・平和運動に力を注ぎ、日本婦人団体連合会会長、国際民主婦人連盟副会長などを務める。東京都千駄ヶ谷の代々木病院にて死去。85歳。著書に『わたくしの歩いた道』(1955年)など。墓は神奈川県川崎市の春秋苑墓地にある。