愛知県豊田市の鈴木正三(すずき しょうさん、1579~1655年)顕彰会が制定。
日付は鈴木正三の命日の6月25日としたもの。命日は旧暦の明暦元年6月25日で、新暦だと1655年7月28日となる。
江戸時代初期、徳川将軍直参旗本の身分を捨て、『万民徳用』(ばんみんとくよう)をはじめとした多くの著書を執筆して人の生き方を説いた鈴木正三。民衆の日常に目を向け、世俗的な職業が肝要であると日本で初めて職業倫理を説き、日本資本主義の源流を築いた思想家の鈴木正三の偉業を後世に伝え顕彰するのが目的。
同顕彰会は1983年(昭和58年)から顕彰活動及び研究図書の発行などの活動を行ってきた。記念日は2025年(令和7年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
鈴木正三は、天正7年1月10日(1579年2月5日)に三河国加茂郡足助庄(現在の愛知県豊田市(旧:足助町))にある則定城主・鈴木重次(すずき しげつぐ)の長男として生まれる。長男ではあるが家を継がず、別に一家を興している。鈴木家は弟の重成(しげなり)が継承した。
江戸時代初期の曹洞宗の僧・仮名草子作家。父の代から徳川家康(とくがわ いえやす)に従い、初陣は関ヶ原の戦いで本多正信(ほんだ まさのぶ)隊に参加して徳川秀忠(とくがわ ひでただ)を護衛し、その後の二度の大坂の陣でも武功を挙げて200石の旗本となった。
一方で、三河武士であった正三は常に生死を身近に感じ、17歳の時に経典を読んで以降は仏教に傾倒し、職務の間を縫って諸寺院に参詣した。
ところが、元和5年(1619年)の大坂城番勤務の際、同僚であった儒学者の「仏教は聖人の教えに反する考えで信じるべきではない」との意見に激しく反発し、『盲安杖』(もうあんじょう)を書いてこれに反論し、翌元和6年(1620年)に42歳で遁世(とんせい:俗世間を離れる)して出家した。
旗本の出家は禁止されていたが、主君の秀忠の温情で罰せられず、正三の家も主命により養子の重長(しげなが)を迎え存続が許されている。
臨済宗の大愚宗築(たいぐそうちく)や曹洞宗の万安英種(ばんなんえいしゅ)らに参禅した後、故郷の三河に戻って石平山恩真寺(おんしんじ)を創建して執筆活動と布教に努めた。
島原の乱後に天草の代官となった弟の重成の要請で天草へ布教し、曹洞宗に限らず諸寺院を復興し、『破切支丹』(はきりしたん)を執筆して切支丹(カトリック・キリスト教)の教義を理論的に批判した。
日本仏教史においては、江戸時代には宗門改などのいわゆる檀家制度によって「葬式仏教」へと堕落して思想・理論的には衰退したとされている中で、正三の『破切支丹』は優れた仏教思想書として高く評価されている。
晩年は江戸の四谷の重俊院(ちょうしゅんいん)、牛込の了心院(りょうしんいん)を拠点に布教活動を続け、天草住民への重税に抗議して切腹したとされる弟の重成の後を継いだ自分の実子の重辰(しげとき)を後見し、天草の復興事業にも尽力し、明暦元年6月25日(1655年7月28日)に76歳で亡くなった。
リンク:愛知県総合教育センター、Wikipedia