大正時代を代表する小説家・芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)の1927年(昭和2年)の忌日。
「河童忌(かっぱき)」の名称は、龍之介が生前に好んで河童の絵を描き、また短編小説『河童』があることにちなむ。その他に、号の「澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)」に由来して「澄江堂忌」や、俳号の「我鬼(がき)」に由来して「我鬼忌」とも呼ばれる。
1892年(明治25年)3月1日、東京市京橋区入船町(現:東京都中央区明石町)に父・新原敏三、母・フクの長男として生まれる。家は牛乳製造販売業を営む。母が精神を病み、母の実家芥川家に預けられる。
11歳の時に母が亡くなり、芥川家の養子となる。芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕えた奥坊主(おくぼうず:職名の一つ。江戸城内の茶室を管理し、将軍や大名・諸役人に茶の接待をした坊主)の家である。家中が芸術・演芸を愛好し、江戸の文人的趣味が残り、早くから文芸への関心を持つ。
1913年(大正2年)、東京帝国大学英文科へ進学。在学中の1914年(大正3年)に菊池寛(きくち かん)、久米正雄(くめ まさお)らと文芸雑誌・第三次『新思潮(しんしちょう)』を創刊する。
1915年(大正4年)、代表作の一つとなる短編小説『羅生門(らしょうもん)』を『帝国文学』に発表。1916年(大正5年)、第四次『新思潮』の創刊号に短編小説『鼻(はな)』を発表し、師事していた夏目漱石(なつめ そうせき)にその才能を認められる。同年、大学を卒業。
初期の作品である『羅生門』や『鼻』、『芋粥(いもがゆ)』(1916年)などは平安時代の『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』を、中期の『地獄変(じごくへん)』(1918年)などは鎌倉時代の『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』を題材としている。
また、『奉教人の死(ほうきょうにんのし)』(1918年)などキリシタン物、『戯作三昧(げさくざんまい)』(1917年)や『枯野抄(かれのしょう)』(1918年)など江戸を舞台にした物とその題材は多岐にわたる。
1927年(昭和2年)、短編小説『河童(かっぱ)』を発表。河童の世界を描くことで人間社会を痛烈に風刺・批判し、当時の人々に問題を提起する。この小説は晩年の代表作として知られる。
同年7月24日、雨の降りしきる中、現在の東京都北区田端の自宅で致死量の睡眠薬を飲んで服毒自殺。35歳。その死は社会に衝撃を与えた。
その他の作品に、児童向け短編小説『蜘蛛の糸(くものいと)』(1918年)のほか、短編小説『藪の中(やぶのなか)』(1922年)、『歯車(はぐるま)』(1927年)、『或阿呆の一生(あるあほうのいっしょう)』(1927年)、随筆『西方の人(せいほうのひと)』(1927年)などがある。
死の8年後、1935年(昭和10年)に親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」(通称:芥川賞)を設立。芥川賞は直木賞と共に日本で最も有名な文学賞として現在まで続いている。