昭和時代の小説家・中山義秀(なかやま ぎしゅう)の1969年(昭和44年)の忌日。
秋の季語。
1900年(明治33年)10月5日、福島県西白河郡大屋村(現:白河市)に生まれる。本名は議秀(よしひで)。1923年(大正12年)、早稲田大学文学部英文科を卒業。
大学在学中に、横光利一(よこみつ りいち)・富ノ澤麟太郎(とみのさわ りんたろう)・小島勗(こじま つとむ)らと同人誌『塔』を創刊。身辺の不幸が続く長い無名時代を経て、1936年(昭和11年)に最初の小説集『電光』を刊行、文芸評論家・小林秀雄(こばやし ひでお)に認められる。
1938年(昭和13年)、同県岩瀬郡長沼町(現:須賀川市)を舞台にした短編小説『厚物咲(あつものざき)』で第7回芥川賞を受賞する。翌1939年(昭和14年)、幕末天狗党に加わった祖父をモデルとする『碑(いしぶみ)』を発表し、文壇での評価を高める。
戦後の1948年(昭和23年)、戦争での取材を元にした『テニヤンの末日』を発表。1964年(昭和39年)、明智光秀(あけち みつひで)を描いた歴史小説『咲庵(しょうあん)』で野間文芸賞を受賞。1966年(昭和41年)、日本芸術院賞を受賞する。
1969年(昭和44年)8月19日、食道癌のため東京・虎の門病院で死去。68歳。『芭蕉庵桃青(ばしょうあんとうせい)』が絶筆となり、没後の1970年(昭和45年)に刊行された。
その他の著書に、歴史小説『信夫の鷹(しのぶのたか)』(1948年)、『新剣豪伝』(1955年)、兄事した横光の生を描いた『台上の月』(1962~63年)などがある。
1971年(昭和46年)に千葉・成田山新勝寺の境内にある成田山公園に教え子らが文学碑を建てた。また、1993年(平成5年)には郷里・白河市に中山義秀記念文学館が開館し、優れた歴史小説を対象にした中山義秀文学賞が創設された。