大正~昭和時代前期の詩人・童話作家の宮沢賢治(みやざわ けんじ、1896~1933年)の忌日。
1896年(明治29年)8月27日、岩手県稗貫郡(ひえぬきぐん)里川口村(現:花巻市)に父・宮澤政次郎(まさじろう)と母・イチの長男として生まれる。正字は宮澤賢治。家業は古着屋兼質屋で、政次郎は宮澤商店を営む。
幼い頃から仏教に親しみ、浄土真宗の信仰の中に育つ。植物や昆虫採集、特に石を集める鉱物採集に熱中する。その後、日蓮宗の経典・法華経(ほけきょう)に傾倒。1918年(大正7年)、盛岡高等農林学校(現:岩手大学農学部)を卒業。嫌いな家業を手伝い、1920年(大正9年)、農林学校研究生を卒業。
1921年(大正10年)、東京行きの汽車に乗り家出。本郷菊坂町に下宿し、文筆によって生計を立て、布教活動にも参加する。『どんぐりと山猫(やまねこ)』『かしわばやしの夜』など童話数編を書く。しかし、発表の機会がないまま妹の発病のため帰郷。郷里の花巻農学校の教諭となる。
1924年(大正13年)に詩集『春と修羅(はるとしゅら)』、童話集『注文の多い料理店(ちゅうもんのおおいりょうりてん)』を自費出版。ダダイストの辻潤(つじ じゅん)や詩人の佐藤惣之助(さとう そうのすけ)らに激賞されるが、一般にはほとんど知られず。1926年(大正15年)、花巻農学校を依願退職。
花巻町の別宅にて独居自炊。周囲を開墾して田畑や花壇を作る。私塾・羅須地人協会(らすちじんきょうかい)として若い農民たちを集め、農業や肥料の講習、レコード鑑賞、合奏練習、童話朗読などを行う。1928年(昭和3年)、過労で倒れ、実家に戻り療養生活を送る。1931年(昭和6年)、手帳に『雨ニモマケズ』を書く。
1933年(昭和8年)9月21日、急性肺炎のため死去。37歳。仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行った。しかし、生前は無名に近く、没後、詩人の草野心平(くさの しんぺい)らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていった。
その他の作品として、童話『グスコーブドリの伝記(でんき)』(1932年)、『風の又三郎(かぜのまたさぶろう)』(1934年)、遺作『銀河鉄道の夜(ぎんがてつどうのよる)』(未定稿)、芸術論『農民芸術概論綱要(のうみんげいじゅつがいろんこうよう)』(1926年)などがある。死去から49年後の1982年(昭和57年)、花巻市の胡四王山(こしおうざん)に「宮沢賢治記念館」が開館した。