西洋文化を取り入れたい明治政府にとって外国と条約を結んだり、会合の約束をする時に暦が違うのは不便であった。表向きにはなっていないが、明治政府が暦を変えたもう1つの理由が予算削減のためであった。
日本は長い間、月を基準にした太陰暦を使用してきた。太陰暦では1日が新月で15日が満月となり、庶民に分かりやすい暦であった。
太陰暦の問題は約29.5日が12ヵ月あっても365日より約11日短く、季節とずれてしまうところにあった。そこで現在の閏(うるう)年のように昔は閏月を定期的に入れて調整していた。閏月がある年は1年が13ヵ月(384日)であった。
明治6年は閏月があるはずの年であり、役人の給料を13ヵ月分払わないといけなかった。近代化政策で財政難であった明治政府は、西洋の暦である太陽暦に合わせることで支払いを事実上踏み倒したのである。
明治5年12月3日を明治6年(1873年)1月1日にすることで、明治5年12月と明治6年の閏月の給料2ヵ月分を払わずに給料の大幅カットに成功した。これに対して「こんな乱暴なやり方はないだろう」と怒った人もいた。
そこで、太陽暦について詳しく説明した『改暦弁』(1873年)という本を慶応義塾創立者の福沢諭吉(1835~1901年)が出版した。この本は大ヒットし、本の売上げで当時あまりよくなかった慶応義塾の経営状態が改善した。明治5年を12月2日で終わらせることを決定した中心人物が早稲田大学創立者の大隈重信(1838~1922年)で、早稲田の大隈が慶応の福沢を救うかたちにもなった。
2017/8/1
カテゴリー「歴史・文化」