総理大臣の不倫というスキャンダルを報じたのが『萬朝報』(よろずちょうほう)で、権力者のスキャンダルを徹底追及しており、日本におけるゴシップ誌の先駆けであった。
そんな明治時代のゴシップ誌の餌食になったのが初代内閣総理大臣・伊藤博文(1841~1909年)であった。時は1885年(明治18年)、博文は45歳であった。海外事情にも詳しく優れたリーダーシップが認められた博文であったが、裏の顔は女性が大好きなゲス総理であった。
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当時、博文には東京、大阪、広島と全国各地に何人もの愛人がおり、面倒をみている芸者の元へ出張のたびに訪れていた。それをいち早く報じたのが当時の権力者が恐れおののいた萬朝報の記者であった。
博文が愛人の中でも特に可愛がっていたのが自宅で大工として雇っていた田村半助の娘・喜勢子であった。そんな愛人へのプレゼントは当時から高級住宅地として知られた麻布の豪邸一軒丸ごとであった。
間接的にも国民の税金が無駄遣いであると萬朝報が怒りの鉄槌として、その愛人の名前と豪邸の住所までも記事に記載した。その事態を重く見て動いたのが明治天皇で博文に女遊びをたしなめるように忠告するが、公務の間に芸者の相手をするのが何よりも好きだと開き直る始末であった。
しかし、この記事の影響か愛人の喜勢子は病死してしまう。女好きの博文もこれで懲りたと思いきや、なんと次女・つね子を愛人にしたいと父親に頼んだ。さらに、その妹も病死し、博文は父親に莫大な金品を与え、三女・雪子も愛人になるように要求した。雪子はこの時まだ16歳であった。
萬朝報は父親に金をちらつかせ美人姉妹を次々に愛人にする総理と報じたことで博文の女好きが日本全国に知れ渡った。ちなみに、当時の明治時代の民法では既婚男性でも相手が未婚であれば浮気は問題なかった。ただし、その反対の既婚女性の浮気は厳禁であった。
2017/9/11
カテゴリー「歴史・文化」