棒高跳びはその昔、日本のお家芸だった。今から81年前の1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックでは日本人選手の西田修平が銀メダル、大江季雄が銅メダルを獲得していた。
手前から西田修平、メドウス、大江季雄の各選手。
画像元:日本オリンピック委員会
歴史的に見ると日本人が急にメダルを獲れなくなった分岐点がある。その悔やまれる分岐点が第二次世界大戦である。第二次世界大戦をきっかけに棒高跳びの競技環境が大きく変化した。戦争による輸出入の停止でポールの素材に大きな変化が起き、日本は技術革新から置き去りにされた。
第二次世界大戦前は現在のようにハイテクなポールはなく、しなりが大きい竹が使用されていた。特に日本の竹は丈夫な上にしなりが良く、節が長いので持ちやすかった。ポールの素材として優秀で、世界中のアスリートが日本の竹を使用していた。日本で良質な竹がとれていたので自由に選ぶことができ、日本人選手にとって非常に有利だった。
それが第二次世界大戦によって輸出できなくなり、海外諸国は日本製の竹を手に入れることが困難になった。ポールの材質には特に規定がないため、竹以外のポールを開発し、金属製のポールが外国で普及していった。そして、終戦から20年後の1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックでは今のポールのルーツであるグラスファイバー製が主流になった。
日本製の竹という地の利を失ったことが、棒高跳び日本がメダルから遠ざかる1つの分岐点となっていた。
2017/9/23
カテゴリー「スポーツ」