昭和時代の小説家・檀一雄(だん かずお、1912~1976年)の忌日。
「夾竹桃忌(きょうちくとうき)」の名称は、檀一雄が生前に夾竹桃(キョウチクトウ)の花を好んだことにちなむ。
なお、夾竹桃(英名:oleander)はインド原産で、中国を経て江戸時代に日本へ伝来したとされる。夾竹桃という和名は、葉が竹(タケ)に似ていること、花が桃(モモ)に似ていることに由来する。
檀一雄は、私小説や歴史小説、料理の本などで知られる。「最後の無頼派」作家・文士とも言われた。女優の檀ふみは長女。エッセイストの檀太郎(だん たろう)は長男。
1912年(明治45年)2月3日、山梨県南都留郡谷村町(現:都留市下谷)に長男として生まれる。父・参郎は図案の技師として、県立工業試験場に勤務。1914年(大正3年)、父の退職に伴い本籍地の福岡県・柳川へ戻る。
1932年(昭和7年)、東京帝国大学経済学部に入学。翌1933年(昭和8年)、同人誌『新人』を創刊し、デビュー作『此家の性格(このいえのせいかく)』を発表。小説家・尾崎一雄(おざき かずお)や太宰治(だざい おさむ)らを知り、小説家・詩人の佐藤春夫(さとう はるお)に師事する。
1936年(昭和11年)、『夕張胡亭塾景観(ゆうばりこていじゅくけいかん)』(1935年)が第2回芥川賞候補となる。翌1937年(昭和12年)、代表作となる青春小説『花筐(はながたみ)』を刊行。同年、日中戦争の勃発により召集を受ける。軍務終了後も帰国せず中国・満州を放浪。
戦後の1950年(昭和25年)、先妻である律子の死を描いた連作『リツ子・その愛』『リツ子・その死』にて文壇に復帰。翌1951年(昭和26年)、長編小説『長恨歌(ちょうこんか)』『真説石川五右衛門(しんせついしかわごえもん)』の2作にて第24回直木賞を受賞。流行作家として活躍する。
1955年(昭和30年)より長編小説『火宅の人(かたくのひと)』を20年にわたり断続的に連載。1975年(昭和50年)に完成させ、翌1976年(昭和51年)1月2日、福岡市東区の九州大学病院で死去。63歳。没後、同作品は第27回読売文学賞小説賞、第8回日本文学大賞を受賞。
その他の著書として、小説『ペンギン記』(1952年)、『夕日と拳銃(ゆうひとけんじゅう)』(1956年)、詩集『虚空象嵌(こくうぞうがん)』(1939年)、料理エッセイ『檀流クッキング』(1970年)、作品集『檀一雄全集』(全8巻別巻・沖積舎・1991~92年)などがある。
1977年(昭和52年)、終の住家となった福岡市能古島(のこのしま)に文学碑が建てられ、その文面には檀一雄の辞世の句となった「モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん」と刻まれ、毎年5月の第3日曜日には彼を偲ぶ「花逢忌(かほうき)」がこの碑の前で営まれる。また、檀の墓は故郷・柳川の福厳寺(ふくごんじ)に建てられている。