三汀忌(3月1日 記念日)

大正・昭和時代の小説家・劇作家・俳人の久米正雄(くめ まさお)の1952年(昭和27年)の忌日。

忌日を閏日(うるうび)の2月29日とする情報も見られる。春の季語。

記念日の名称は俳号の「三汀(さんてい)」に由来する。また、久米正雄が微笑とも苦笑ともつかない笑いとして「微苦笑(びくしょう)」という語を造語したことから「微苦笑忌」とも呼ばれる。

久米正雄

久米正雄について

1891年(明治24年)11月23日、長野県上田市に生まれる。東京帝国大学文学部英文科を卒業。

中学時代に河東碧梧桐門下の俳人としてその早熟の才を認められる。第一高等学校に進学してからは劇作に志す。

大学在学中、成瀬正一、松岡譲らと第三次『新思潮』を創刊し、作品を発表。1914年(大正3年)に戯曲『牛乳屋の兄弟』を発表。有楽座で上演され、好評を博す。『新思潮』廃刊後は、『帝国文学』同人。

1915年(大正4年)、夏目漱石の門人となる。翌1916年(大正5年)、芥川龍之介、菊池寛らと第四次『新思潮』を創刊。同年大学を卒業。

漱石の長女・筆子に失恋。その経緯を1918年(大正7年)の『蛍草』、1922年(大正11年)の『破船』などの長編小説に描き、流行作家となる。

第二次世界大戦中、日本文学報国会の事務局長を務める。1945年(昭和20年)、鎌倉文士の蔵書を基に川端康成たちと開いた貸本屋(戦後に出版社となる)「鎌倉文庫」の社長も務め、文藝雑誌『人間』や大衆小説誌『文藝往来』を創刊する。

晩年は高血圧に悩み、脳出血で急逝。60歳。その他の作品に、短編小説『受験生の手記』(1918年)、長編小説『月よりの使者』(1934年)などがある。

リンクWikipediaコトバンク

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カテゴリー「3月の記念日」「今日は何の日

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