室町時代の浄土真宗の僧・蓮如(れんにょ)上人の1499年(明応8年)の忌日。
この日を中心として、京都の東本願寺・西本願寺などで盛大な法要が営まれる。
1415年(応永22年)2月25日に京都・東山の大谷本願寺(現:知恩院塔頭 崇泰院)にて、本願寺第7世存如(ぞんにょ)の長子として生まれる。幼名は布袋丸。院号は信証院。諱(いみな)は兼寿。蓮如上人と尊称される。
初め17歳の時に青蓮院(しょうれんいん)で得度して修学に励む。次いで大谷の草庵で宗義をきわめ、1447年(文安4年)に関東に下り、親鸞(しんらん)の遺跡を巡拝する。
1457年(長禄元年)、父・存如の死去に伴い本願寺第8世を継ぐ。門徒の教化に努め、日常語で宗学の要を説く。精力的かつ現実に対応するやわらかい頭脳と、人間的魅力によって教化に成功し、教団を拡大する。
東北各地の旅ののち1471年(文明3年)に越前の吉崎に道場を設け、北陸の教化に努める。1496年(明応5年)大坂に石山別院(後の石山本願寺)を営む。山科本願寺において85歳で死去。
1882年(明治15年)に明治天皇より慧灯(えとう)大師の諡号(しごう)を追贈される。著書に『正信偈大意』『御文(御文章)』『領解文』などがある。蓮如の教示の文章を東本願寺では「おふみ」と呼び、西本願寺では「ごぶんしょう」と呼ぶ。
親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。衰退した本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。