大正・昭和期の詩人・彫刻家の高村光太郎(たかむら こうたろう)の1956年(昭和31年)の忌日。
「連翹忌(れんぎょうき)」の名前は、高村がアトリエの庭に咲く連翹(れんぎょう)の花を大変愛し、彼の告別式で棺の上にその一枝が置かれていたことに由来する。この日は「光太郎忌」ともされる。
1883年(明治16年)3月13日に彫刻家・高村光雲の長男として、現在の東京都台東区東上野に生まれる。本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む。東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)彫刻科を卒業。
文学にも関心を寄せ、在学中に与謝野鉄幹の新詩社の同人となり、詩歌雑誌『明星』に短歌・詩などを寄稿。1906年(明治39年)からニューヨーク、ロンドン、パリに留学し、オーギュスト・ロダンに傾倒。帰国後、彫刻・絵画の制作を行い、また北原白秋らの「パンの会」に参加し、文芸雑誌『スバル』などに美術評論・詩を発表する。
1914年(大正3年)に第一詩集『道程』を刊行、のちに第1回帝国芸術院賞を受賞。同年、洋画家・長沼智恵子と結婚。1938年(昭和13年)に智恵子と死別し、のちに詩集『智恵子抄』を出版する。
太平洋戦争を聖戦として戦争協力詩・愛国詩を書く。戦後、その責任意識から岩手県花巻郊外の太田村に粗末な小屋を建て、7年間の独居自炊の生活を送る。1950年(昭和25年)、戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版、翌年に第2回読売文学賞を受賞。
山居生活を終え、現在の東京都中野区中野のアトリエに転居し、十和田湖畔に建つ『乙女の像』を制作。自宅アトリエにて肺結核のため死去。73歳。その他の代表的作品に翻訳『ロダンの言葉』、彫刻『手』『裸婦座像』『柘榴』『鯰』『蝉』などがある。
著名な芸術家・詩人であるとともに、美や技巧を求める以上に、人間の「道」を最期まで探求した人格として、高村を支持する人は多い。花巻市の小屋は現在では「高村山荘」として保存公開され、近隣には「高村記念館」がある。