明治時代の歌人・山川登美子(やまかわ とみこ)の1909年(明治42年)の忌日。
1879年(明治12年)7月19日、現在の福井県小浜市に生まれる。生家は小浜藩の上級藩士の旧家筋。本名・とみ。号・白百合。大阪のミッションスクール・梅花女学校を卒業。
1900年(明治33年)、与謝野鉄幹の東京新詩社に参加、雑誌『明星』の主要歌人として活躍。与謝野晶子、茅野雅子とともに三才媛とうたわれる。
師・鉄幹への思慕をたち、親の勧めた縁組により一族の山川駐七郎(とめしちろう)と結婚するが、2年で死別。日本女子大学英文科に入学し、『明星』に復帰。
1905年(明治38年)に晶子、雅子との共著歌集『恋衣』を刊行。抑制のきいた静かな表現のなかに女の愛の真実感を漂わせた歌風に特色をもつ。
夫の駐七郎から感染した結核が元で、生家で死去。29歳。生前の個人歌集はないが、2011年(平成23年)に今野寿美編により『山川登美子歌集』(岩波文庫)がまとめられた。
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