大正から昭和時代の小説家・随筆家である内田百間(うちだ ひゃっけん)の1971年(昭和46年)の忌日。
「木蓮忌(もくれんき)」の名前は、「木蓮や塀の外吹く俄風(にわかかぜ)」の句にちなむ。東京都中野区上高田の金剛寺にその句碑がある。
1889年(明治22年)5月29日、現在の岡山県岡山市中区古京町に裕福な造り酒屋の一人息子として生まれる。本名は栄造。別号は百鬼園(ひゃっきえん)。東京帝国大学独文科を卒業。
1911年(明治44年)、療養中の夏目漱石を見舞い、門弟となる。漱石没後は「漱石全集」の校閲に従事。1916年(大正5年)、陸軍士官学校ドイツ語学教授に任官。1920年(大正9年)、法政大学教授(予科独逸語部)に就任。
1922年(大正11年)、短編小説集『冥途(めいど)』で文壇に登場。幻想的手法が高く評価される。1933年(昭和8年)、随筆集『百鬼園随筆』を刊行。風刺とユーモアに富む独特な作風で注目され、ベストセラーとなる。
1957年(昭和32年)、愛猫「ノラ」が失踪、その後に居ついた「クルツ」も病死。その悲しみを綴った随筆『ノラや』『クルやお前か』を執筆。1967年(昭和42年)、芸術院会員に推薦されるが断る。
東京都千代田区六番町の自宅で老衰により死去。81歳。その他の作品に、小説『旅順入城式』(1934年)、『贋作吾輩は猫である』(1950年)、紀行『阿房列車』(1952年)、日記『東京焼尽』(1955年)などがある。