明治から昭和前期の小説家・田山花袋(たやま かたい)の1930年(昭和5年)の忌日。
1872年1月22日(明治4年12月13日)、栃木県邑楽郡館林町(現:群馬県館林市)に生まれる。本名は録弥(ろくや)。田山家は、代々の秋元藩士。
尾崎紅葉、江見水蔭の指導を受けたが、自然主義的な作品『重右衛門の最後』(1902年)によって文壇に認められる。評論『露骨なる描写』(1904年)を書き、文芸雑誌『文章世界』(1906年)の主筆となって自然主義文学を推進。
1907年(明治40年)、告白的な暴露小説『蒲団』を発表。続いて『生』(1908年)、『妻』(1909年)、『縁』(1910年)の長編三部作や、書き下ろし長編小説『田舎教師』(1909年)などを発表し、島崎藤村とともに自然主義文学の代表的作家となる。
大正に入ってからは自然派の衰退と新鋭作家の登場で次第に文壇の主流から外れていく。だが『時は過ぎゆく』(1916年)、『一兵卒の銃殺』(1917年)などの作品を精力的に発表。
東京府代々幡町(現:渋谷区代々木)の自宅で死去。58歳。藤村の書を刻んだ墓は府中市および小金井市の多磨霊園にある。その他の作品に、紀行文『南船北馬』(1899年)、回想集『東京の三十年』(1917年)などがある。