1948年(昭和23年)のこの日、6月13日に自殺した小説家・太宰治(だざい おさむ)の遺体が発見された。
6月13日、太宰が戦争未亡人で美容師の愛人・山崎富栄(やまざき とみえ)と東京の玉川上水に入水心中した。2人の遺体が発見されたのは6日後の6月19日で、この日は奇しくも太宰の誕生日であった。そして、6月19日は彼が死の直前に書いた短編小説『桜桃』にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一(こん かんいち)により「桜桃忌(おうとうき)」と名付けられた。
太宰の墓がある東京都三鷹市の禅林寺では、6月19日に法要が営まれ、全国から多くの愛好家が訪れる。太宰の出身地・青森県金木町(現:五所川原市)でも「桜桃忌」の行事を行っていたが「生誕地には生誕を祝う祭の方がふさわしい」という遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。
1909年(明治42年)6月19日、青森県北津軽郡金木村(後:金木町、現:五所川原市)に六男として生まれる。本名は津島修治(つしま しゅうじ)。父・源右衛門は県下有数の大地主であった。東京帝国大学仏文科を中退。
井伏鱒二(いぶせ ますじ)に師事。在学中に共産主義運動の非合法活動に関連し、脱落後に自殺未遂。
1935年(昭和10年)に『逆行』(第1回芥川賞候補)『道化の華』『ダス・ゲマイネ』を発表して認められ、創作集『晩年』(1936年)、『虚構の彷徨』『二十世紀旗手』(1937年)を経て、『駈込み訴へ』『走れメロス』(1940年)などにより作家としての地位を確立する。
第2次世界大戦後は『トカトントン』『ヴィヨンの妻』『斜陽』(1947年)、『人間失格』(1948年)など自意識崩壊の告白を綴って流行作家となる。坂口安吾(さかぐち あんご)、織田作之助(おだ さくのすけ)らとともに無頼派の代表作家とされる。
上記のように愛人・山崎富栄との入水自殺により38歳で死去。記念施設として、五所川原市にある太宰治記念館「斜陽館」と、ゆふいん文学の森「碧雲荘」がある。
「斜陽館」は、太宰の生家であり、近代和風住宅の代表例として国の重要文化財に指定されている。「碧雲荘」は、短編小説『富嶽百景』(1939年)に登場する、東京都杉並区天沼に実在したアパートで、現在は大分県由布市湯布院町に移築され、文学交流施設として公開されている。