江戸時代前期~中期の儒学者・本草学者の貝原益軒(かいばら えきけん、1630~1714年)の忌日(旧暦)。
1630年(寛永7年)11月14日、筑前国(現:福岡県)に五男として生まれる。名は篤信(あつのぶ)。字は子誠(しせい)。通称は久兵衛。別号に損軒(そんけん)。祖父の代より黒田氏に仕える。
父や兄に医学・漢学を学ぶ。1648年(慶安元年)18歳で福岡藩に仕えるが、第2代藩主・武断派の黒田忠之(くろだ ただゆき)の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送る。その間、医学修業に励む。 1656年(明暦2年)26歳の時、第3代藩主・文治派の黒田光之(くろだ みつゆき)に許され、藩医となる。
藩命により京都に遊学し、医薬に関する本草学(ほんぞうがく)や陽明学、朱子学などを学ぶ。この頃、儒学者・木下順庵(きのした じゅんあん)、山崎闇斎(やまざき あんさい)、松永尺五(まつなが しゃくご)らと交友を深める。
1664年(寛文4年)34歳の時、帰藩。1699年(元禄12年)69歳で役を退き、著述業に専念。教育・医学・本草・歴史などにも功績を残す。1714年(正徳4年)8月27日、84歳で死去。
著書には、歴史書『黒田家譜(くろだかふ)』(1688年)、本草書『大和本草(やまとほんぞう)』(1709年)、教育書『和俗童子訓(わぞくどうじくん)』(1710年)、養生(健康)についての指南書『養生訓(ようじょうくん)』(1713年)、随筆『慎思録(しんしろく)』(1714年)などがある。