一草忌(10月11日 記念日)

大正~昭和時代前期の俳人・種田山頭火(たねだ さんとうか、1882~1940年)の忌日。

「一草忌(いっそうき)」の名称は、山頭火終焉の地である愛媛県松山市の庵「一草庵(いっそうあん)」の名前にちなむ。

種田山頭火

種田山頭火について

1882年(明治15年)12月3日、山口県佐波郡西佐波令村(現:防府市八王子)に5人兄妹の長男として生まれる。家は大地主。本名は正一(しょういち)。1892年(明治25年)10歳の時、母が、父の芸者遊びなどを苦にして、自宅の井戸に投身自殺。以後、正一は祖母の手によって育てられる。

1902年(明治35年)20歳の時、東京専門学校高等予科を卒業。同年、早稲田大学文学科に入学するが、神経衰弱のため中退。実家へ帰郷。父と酒造業を営む。

1909年(明治42年)27歳の時、結婚。1913年(大正2年)31歳の時、俳人・荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)に師事。井泉水が主宰する自由律の俳句雑誌『層雲(そううん)』に俳句を発表する。

酒造場の経営が危機に陥り、種田家は破産に追い込まれる。父は行方不明になり、山頭火は友人を頼って妻子と熊本へ移る。古書店、次いで額縁店を開く。しかし、家業に身が入らず、1919年(大正8年)37歳の時、妻子と別れ上京。

1923年(大正12年)41歳の時、関東大震災に遭い、熊本の元妻のもとへ帰る。酒におぼれた生活を送るが、1924年(大正13年)42歳の時、熊本市の曹洞宗・報恩寺(ほうおんじ)で出家。法名は耕畝(こうほ)。味取観音堂(みとりかんのんどう)の堂守となる。

1925年(大正14年)43歳の時、寺を出て、西日本を中心に旅して句作を行う。その後、甲信地方や東北地方などを旅して数々の作品を残す。山口市湯田温泉や愛媛県松山市に移住。

1940年(昭和15年)10月11日、57歳の時、松山市の一草庵で脳出血のため死去。著書として、句集『鉢の子』『草木塔』『山行水行』、紀行文集『愚を守る』などがある。自由律俳句の代表として、井泉水門下の同人・尾崎放哉(おざき ほうさい)と並び称される。

関連する記念日として、長野県小諸市にある温泉宿・中棚荘(なかだなそう)に宿泊した日に由来して、5月19日は「小諸・山頭火の日」となっている。

リンクWikipediaコトバンク松山市

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カテゴリー「10月の記念日」「今日は何の日

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