大正・昭和時代前期の詩人・中原中也(なかはら ちゅうや、1907~1937年)の忌日。
この日には山口県山口市にて墓前祭や、同市にある中原中也記念館において特別展示などのイベントが開催される。
1907年(明治40年)4月29日、山口県吉敷郡下宇野令村(現:山口市湯田温泉)の中原医院で長男として生まれる。旧姓は柏村。父・謙助は陸軍軍医。
父の仕事の都合で広島や金沢などで幼少期を過ごす。小学校時代は学業成績もよく神童と呼ばれる。1915年(大正4年)8歳の時、地元の山口で、中原家と養子縁組。苗字が柏村から中原になる。同年、弟が病死したことで文学に目覚める。
中学校時代に短歌を作り始める。1922年(大正11年)、山口中学校(現:山口高等学校)在学中に、友人と共著で歌集『末黒野(すぐろの)』を刊行。才能を示すが、学業成績不良のため落第。
1923年(大正12年)、京都の立命館中学校に編入、一人で下宿生活を送る。詩人・高橋新吉(たかはし しんきち)の影響を受けて、芸術思想ダダイズムに傾倒、詩作を始める。3歳年上の女優・長谷川泰子(はせがわ やすこ)と知り合い、翌年から同棲。6歳年上の詩人・富永太郎(とみなが たろう)と親交を結ぶ。
1925年(大正14年)、泰子と共に上京。文芸評論家・小林秀雄(こばやし ひでお)と知り合うが、泰子が小林と同棲するという事件が起こり、深い傷を受ける。1933年(昭和8年)、東京外国語学校(現:東京外国語大学)専修科仏語部を卒業。同年、遠縁にあたる上野孝子と結婚。
1934年(昭和9年)、第一詩集『山羊の歌(やぎのうた)』を刊行、好評を得る。詩の同人雑誌『四季(しき)』や『歴程(れきてい)』に参加する。
1937年(昭和12年)10月22日、神奈川県鎌倉町扇ヶ谷で結核性脳膜炎のため死去。30歳。墓所は山口市吉敷。没後の1938年(昭和13年)、第二詩集『在りし日の歌(ありしひのうた)』が刊行された。その他、フランス詩の翻訳でも知られ、訳詩集『ランボオ詩集』がある。
その後、1994年(平成6年)、山口市湯田温泉の生家跡地に中原中也記念館が開館。1996年(平成8年)、山口市により新たに中原中也賞を創設された。