明治時代の小説家・俳人の尾崎紅葉(おざき こうよう、1868~1903年)の忌日。
秋の季語。この日は「紅葉忌(こうようき)」の他に、別号の十千万堂(とちまんどう)にちなんで「十千万堂忌(とちまんどうき)」とも呼ばれる。
1868年(慶応3年)1月10日、江戸芝中門前町(現:東京都港区芝大門)に生まれる。本名は徳太郎。別号に縁山(えんざん)・半可通人(はんかつうじん)など。父・尾崎谷斎(おざき こくさい)は根付(ねつけ:留め具)を作る根付師。
1885年(明治18年)、小説家・山田美妙(やまだ びみょう)、石橋思案(いしばし しあん)らと文学結社・硯友社(けんゆうしゃ)を設立し、文芸雑誌『我楽多文庫(がらくたぶんこ)』を発刊。
1889年(明治22年)、「新著百種」シリーズの第一冊目として、紅葉の『二人比丘尼 色懺悔(ににんびくに いろざんげ)』が刊行される。この作品が好評を博し、流行作家となる。この頃、浮世草子・人形浄瑠璃作者の井原西鶴(いはら さいかく)に傾倒。写実主義とともに擬古典主義を深めるようになる。
その一方で、1890年(明治23年)に帝国大学(現:東京大学)国文科を中退。大学在学中に読売新聞社に入社し、以後、紅葉の作品の重要な発表舞台は『読売新聞』となる。『伽羅枕(きゃらまくら)』(1890年)、『二人女房(ににんにょうぼう)』、『三人妻(さんにんづま)』(1892年)などを発表し、小説家・幸田露伴(こうだ ろはん)とともに紅露時代を築く。
その後、『源氏物語』の影響で心理描写に主を置き、『心の闇(こころのやみ)』(1893年)、『多情多恨(たじょうたこん)』(1896年)などを書く。1897年(明治30年)から大作『金色夜叉(こんじきやしゃ)』の連載を始め、貫一とお宮をめぐっての金と恋の物語は大人気作となる。しかし、この作品の長期連載が災いし、健康を害する。療養のため栃木県の塩原や静岡県の修善寺に赴く。
1903年(明治36年)10月30日、東京市牛込区横寺町(現:東京都新宿区横寺町)の自宅で胃癌のため死去。35歳。墓は港区南青山の青山霊園にある。『金色夜叉』は断続的に書き継がれたが未完のまま終わった。
20歳代で多くの弟子を抱え、紅葉門下の四天王と呼ばれる小説家・泉鏡花(いずみ きょうか)、徳田秋声(とくだ しゅうせい)、小栗風葉(おぐり ふうよう)、柳川春葉(やながわ しゅんよう)など、優れた門下生を育てた。
俳人としても角田竹冷(つのだ ちくれい)らとともに俳句結社・秋声会(しゅうせいかい)を結成し、俳人・正岡子規(まさおか しき)と並んで新派と称された。