昭和・平成時代の小説家・放送作家の藤本義一(ふじもと ぎいち、1933~2012年)の忌日。
「蟻君忌(ありんこき)」の名称は、藤本が好んで色紙に書いていた言葉「蟻一匹炎天下」にちなむ。また、「義一」の義に虫へんを付けると「蟻一」となることから。
1933年(昭和8年)1月26日、大阪府堺市に生まれる。本名の読みは「ふじもと よしかず」。少年飛行兵を目指して1945年(昭和20年)に航空機搭乗員養成所に入るが、終戦となる。大阪市の新制・浪速高等学校に進み、京都の立命館大学法学部に入学するが、中退。
1951年(昭和26年)、大阪府立大学教育学部に入学した後、経済学部へ転部。演劇部に入部する一方、日本拳法部の創設に関わる。役者より劇作家の方を志し、在学中から数十編のラジオドラマ、その他の脚本を書く。
卒業前年の1957年(昭和32年)に執筆したラジオドラマ作品『つばくろの歌』で同年度の芸術祭文部大臣賞戯曲部門を受賞。「東の井上ひさし、西の藤本義一」と呼ばれるほど、早くからその才能は高く評価される。
1958年(昭和33年)、学生時代に知り合っていた後のタレント・藤本統紀子(ふじもと ときこ)と結婚。同年、大阪府立大学を卒業。
その後、テレビドラマ脚本を経て、宝塚映画撮影所、続いて大映に入社、衣笠貞之助(きぬがさ ていのすけ)の脚本の手伝いもする。川島雄三(かわしま ゆうぞう)監督に師事して多くの映画脚本を手掛ける。
1965年(昭和40年)から始めた深夜テレビ番組『11PM(イレブン・ピーエム)』のキャスターにより、一躍知名度を高める。1990年(平成2年)の放送終了までの25年に渡って毎週2回を担当する。
1968年(昭和43年)に長編小説第一作『残酷な童話』を発表。次作『ちりめんじゃこ』で1969年(昭和44年)第61回直木賞候補となり、1974年(昭和49年)に上方落語家の半生を描いた『鬼の詩(おにのうた)』で第71回直木賞を受賞。
その後、多くの小説、エッセイ、社会・文芸評論、脚本を執筆、テレビでもコメンテーターや評論家として活躍する。日本放送作家協会関西支部長やプロ作家を育成する心斎橋大学総長も務める。
2012年(平成24年)10月30日、兵庫県西宮市の病院で肺がんのため死去。79歳。その他の著書として、川島監督のモデル小説『生きいそぎの記』(1974年)、伝記小説『元禄流行作家:わが西鶴』(1980年)、『蛍の宿:わが織田作』(1986年)などがある。