大正~昭和時代の俳人・原石鼎(はら せきてい、1886~1951年)の忌日。
冬の季語。
原石鼎は、俳人・村上鬼城(むらかみ きじょう)、渡辺水巴(わたなべ すいは)、飯田蛇笏(いいだ だこつ)、前田普羅(まえだ ふら)と共に大正期の『ホトトギス』を代表する作家の一人である。
1886年(明治19年)3月19日、島根県簸川郡塩冶村(現:出雲市)に三男として生まれる。本名は鼎(かなえ)。家は代々医師。
中学時代より俳句や短歌を始めとする文学活動に熱中。一方で家業を継ごうと、1908年(明治41年)に京都医学専門学校(現:京都府立医科大学)に入学。校内で句会を起こすなどするが、2年続けて落第し放校処分となる。
各地を放浪した後、俳人・高浜虚子(たかはま きょし)に認められる。1915年(大正4年)に上京し、ホトトギス社に入る。虚子の口述筆記など雑用を担当する。1918年(大正7年)、俳人・原コウ子(志賀コウ)と結婚。
1921年(大正10年)、俳人・小野蕪子(おの ぶし)から俳句雑誌『草汁』を譲り受け、『鹿火屋(かびや)』に改称、主宰する。
1923年(大正12年)の関東大震災以降は神経衰弱に苦しむ。また、虚子と対立を深め、絶縁に至る。たびたび病に伏せながらも後進の指導を続ける。
1951年(昭和26年)12月20日、65歳で死去。「松朽ち葉かゝらぬ五百木無かりけり」が辞世。句集に『花影(かえい)』(1937年)などがある。没後、『鹿火屋』主宰は妻のコウ子、後に養子の原裕(はら ゆたか)が継いだ。