「食べれる」や「見れる」など若者を中心に見られる「ら抜き言葉」だが、専門家の言語学者は問題ないとの見解を持っている人が多い。
画像元:グッドクロス
「ら抜き言葉」は年配の方々には「耳障りがよくない」「嫌い」など否定的な意見も多い。また、日本語のプロであるアナウンサーは「ら抜き言葉」を絶対に使ってはいけないことになっている。しかし、日本の専門家の中で「ら抜き言葉」は問題ないとほぼ意見は揃いつつある。
例えば、「行く」という動詞を「行くことができる」に言い換える場合、可能動詞の「行ける」とも言える。古くは「行かれる」が正しい日本語だったが、室町時代から「行ける」が使われ始め、現在では「行く」という動詞と「行ける」に分かれ、両方正しい言葉として辞書にも載っている。
しかし、この可能の意味を表す動詞が生まれなかったものが「食べる」や「見る」である。このような動詞の場合、「食べれる」や「見れる」など「ら抜き言葉」が発生する。ここで問題になるのが聞き手にどう捉えられるかということ。ぱっと「食べられる」と聞いた時、受け身・自発・可能・尊敬のどの意味か迷ってしまう。一方、「食べれる」の場合は「可能」で意味がブレない。
ローマ字表記にしてみると、「行かれる」(ikareru)から「行ける」(ikeru)になった時に抜けているのは「ar」である。同様に「食べられる」(taberareru)から「食べれる」(tabereru)になった時も「ar」が抜けている。一般的に「ら抜き言葉」と呼ばれるが、言語学的に見ると「ar抜き言葉」と言える。
「食べれる」は否定的な意見もあるが、言語学的に見れば「行ける」と全く同じ変化である。「行ける」はよくて「食べれる」がダメな理由は、「行ける」は室町時代から使用されているため。これは「時代差」なら文句を言わないが、「世代差」になると急に文句を言い始める人がいる現象だと専門家は指摘する。
「ら抜き言葉」は室町時代から続く日本語の変化の一つと捉えることができる。そのため、言語学者は「ら抜き言葉」を許容する流れにある。
2018/1/13
カテゴリー「歴史・文化」