学校の音楽室には音楽家の肖像画が飾ってあるが、その中の「ショパンの肖像画」には悲しい失恋話が隠されている。
フレデリック・ショパン(1810~1849年)は、ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家であり、ピアニストとしても有名であった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、「ピアノの詩人」とも呼ばれるように、様々な形式、美しい旋律、半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。
1836年、ショパンは26歳の時にジョルジュ・サンド(1804~1876年)というフランスの女流作家と出会い、そして交際するようになる。恋人のサンドは、6歳年上でバツイチの子持ちであった。
音楽室にも飾ってある上のショパンの肖像画は、フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家で、ショパンとサンドの友人でもあったウジェーヌ・ドラクロワ(1798~1863年)により1838年に描かれた絵である。
実はこの作品はショパンがピアノを弾いていて、ショパンの左側に見守るように座っているサンドの姿が描かれていた。その姿はショパンの音楽に聴き入っているようにも見える。
しかし、彼女が年上で子供もいるということで周囲の反対や子供からの反対もあったとされ、最終的に2人は別れることになる。それは1847年、ショパンは37歳の時で、10年に及ぶ関係は静かに終わりを迎えた。
そして、破局した後、この2人が描かれた絵は収集家の手に渡り、縁起が悪いと2つに引き裂いてしまい、それぞれ単独の肖像画となった。私たちがよく目にする「ショパンの肖像画」は、2つに引き裂かれた後の絵だった。
ショパンはサンドと別れた後、脱出できない鬱状態に陥った。そして、別れた2年後の1849年に39歳という若さで生涯を閉じた。ショパンはサンドと交際していた時から病に苦しんでいたが、その病や死因については明らかになっていない。死亡診断書では死因は肺結核であるとされている。
現在、ショパンの肖像画はパリのルーヴル美術館に、サンドの肖像画はコペンハーゲンのデンマーク王立美術館に所蔵されている。また、2人の墓はパリのペール・ラシェーズ墓地で4メートルの距離に位置している。
2018/2/1
カテゴリー「歴史・文化」