1885年(明治18年)のこの日、日布移民条約によるハワイへの移民第一号の船が横浜港を出航した。
ハワイにおける移民は、急増するサトウキビ畑や製糖工場で働く労働者を確保するため、1830年頃より始められた。ポルトガル人、ノルウェー人などがハワイに導入されたが、地理的に近くてコストも安かったためアジアからの移民が好まれ、日本人、中国人、フィリピン人(米国に併合されてから)が急増した。
1885年に日布移民条約が結ばれたことで、ハワイへの移民が公式に許可されるようになった。この政府間の条約によってハワイに働きに行った日本人移民は「官約移民」と呼ばれた。
1884年、最初の移民600人の公募に対し、28,000人の応募があり、946名が東京市号に乗り込み、ハワイへと渡った。1894年(明治27年)に民間に委託されるまで、約29,000人が官約移民としてハワイへ渡った。
官約移民は「3年間で400万円稼げる」といったことを謳い文句に盛大に募集が行われたが、その実態は人身売買に類似し、半ば奴隷に近かった。
労働は過酷で、「ルナ」と呼ばれる現場監督の鞭で殴るなどの酷使や虐待が行われ、1日10時間の労働で、休みは週1日、給与は月額10ドルから諸経費を差し引かれた金額であったという。
一方、日本や中国からの移民から儒教、道教、仏教、神道などが持ち込まれ、特に仏教が栄えた。これらの宗教は年中行事や冠婚葬祭だけでなく日本語学校、寺子屋、合唱隊、ボーイスカウト、講演会、バザーなど様々な催しの場を提供し、日系社会のコミュニケーションの基礎固めという役割を果たすようになった。
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