大正・昭和時代の俳人・医師である水原秋桜子(みずはら しゅうおうし)の1981年(昭和56年)の忌日。
名前の「秋桜子」の漢字は「秋櫻子」とも表記される。また、この日は「秋桜子忌」の名称のほかに、別号に由来して「喜雨亭忌(きうていき)」や、代表的な句「滝落ちて群青世界とどろけり」に由来して「群青忌(ぐんじょうき)」とも呼ばれる。
1892年(明治25年)10月9日、東京市神田区猿楽町(現:東京都千代田区神田猿楽町)に長男として生まれる。本名は水原豊(みずはら ゆたか)。家は代々産婦人科を経営する病院。第一高等学校を経て、1918年(大正7年)に東京帝国大学医学部を卒業。医学博士。
家業の病院を継き、経営する。その傍ら、1928年(昭和3年)に昭和医学専門学校(現:昭和大学)の教授となり、宮内省侍医療御用掛を務める。
一方、俳句は松根東洋城(まつね とうようじょう)、高浜虚子(たかはま きょし)に師事する。1919年(大正8年)、虚子の俳句雑誌『ホトトギス』に参加。高野素十(たかの すじゅう)、山口誓子(やまぐち せいし)、阿波野青畝(あわの せいほ)とともに「ホトトギスの四S(よんエス)」と称され、黄金時代を築く。
虚子の提唱する客観写生に対して主観写生を主張。『ホトトギス』を離れ、俳句雑誌『馬酔木(あしび)』に参加、主宰。誓子とともに反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動を推進する。
1962年(昭和37年)、俳人協会会長に就任。1964年(昭和39年)、日本芸術院賞を受賞。1966年(昭和41年)、日本芸術院会員。1967年(昭和42年)、勲三等瑞宝章を受章する。
1981年(昭和56年)7月17日、急性心不全のため東京都杉並区西荻南の自宅で死去。88歳。墓は豊島区の都営染井霊園にある。
著作として、『葛飾(かつしか)』(1930年)、『霜林(そうりん)』(1950年)、『残鐘(ざんしょう)』(1952年)、『帰心(きしん)』(1954年)、『余生(よせい)』(1977年)など数多くの句集や論著があり、『水原秋桜子全集』(全21巻 講談社 1977年)に収められている。