太閤忌(8月18日 記念日)

安土桃山時代の武将・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の1598年(慶長3年)の忌日(旧暦)。

「太閤忌(たいこうき)」の名称は、秀吉に対する称号「太閤」にちなむ。「太閤(たいこう)」とは、元々は摂政や関白の職を退いて、その職を子弟に譲った者を指す言葉である。ただし、太閤検地のように太閤といえば秀吉を指すことが多い。

京都市東山区にある秀吉を祀る豊国神社(とよくにじんじゃ)では、忌日の新暦にあたる9月18日・19日に例祭・献茶祭が行われる。

豊臣秀吉

豊臣秀吉について

1537年(天文6年)2月6日、尾張国愛知郡中村郷(現:愛知県名古屋市中村区)の下層民の家に生まれる。父・木下弥右衛門(きのした やえもん)は足軽や農民との説がある。幼名は日吉丸(ひよしまる)。

織田信長(おだ のぶなが)に足軽として仕え、機敏な行動と才覚により戦功を重ねて累進。1573年(天正元年)、浅井氏の滅亡後に近江(おうみ、現:滋賀県)を与えられ、長浜城の城主となる。この頃、木下藤吉郎(きのした とうきちろう)を改め、羽柴秀吉(はしば ひでよし)と名乗る。

1577年(天正5年)、中国征伐の将として毛利氏と対戦。本能寺の変により信長が自害した後、山崎の戦いで明智光秀(あけち みつひで)を討つ。ついで柴田勝家(しばた かついえ)を破り、1583年(天正11年)に大坂城を築く。

その後、徳川家康(とくがわ いえやす)を臣従させ、四国・九州・関東・奥羽を平定して天下統一を成し遂げる。その間、1585年(天正13年)に関白となり、翌1586年(天正14年)に豊臣の姓を賜わり、太政大臣となる。

1591年(天正19年)、弟の豊臣秀長(とよとみ ひでなが)、後継者に指名していた嫡男・鶴松(つるまつ)が相次いで病死。そのため、甥・秀次(ひでつぐ)を家督相続の養子として関白職を譲り、秀吉は太閤と称する。

天下統一後は、貨幣統一・兵農分離・太閤検地・刀狩り・石高制(こくだかせい)などの政策を全国的に実施し、国内の統合を進め、幕藩体制に至る基礎を築く。

晩年、朝鮮出兵を企てるが、戦局半ばの1598年(慶長3年)8月18日、京都・伏見城で病死。波乱に満ちた61歳の生涯を閉じた。辞世の句は、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」。

リンクWikipediaコトバンク

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カテゴリー「8月の記念日」「今日は何の日

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