明治時代の俳人・歌人の正岡子規(まさおか しき、1867~1902年)の忌日。
秋の季語。この日は「子規忌(しきき)」のほかに、辞世の句「糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」など三句にヘチマが詠み込まれていることから「糸瓜忌(へちまき)」、別号として獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん)を用いたことから「獺祭忌(だっさいき)」とも呼ばれる。
1867年10月14日(慶応3年9月17日)、伊予国温泉郡藤原新町(現:愛媛県松山市花園町)に長男として生まれる。本名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)、後に升(のぼる)。父・常尚は松山藩士。母・八重は藩の儒者・大原観山(おおはら かんざん)の長女。
1872年(明治5年)、幼くして父を亡くし家督を相続。外祖父・観山の私塾に通い漢学を学ぶ。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しむ。1883年(明治16年)、旧制松山中学(現:松山東高等学校)を中退し上京。
東大予備門(後の第一高等学校)に入学し、小説家・夏目漱石(なつめ そうせき)を知る。この頃から和歌や俳句を作り始める。1892年(明治25年)、帝国大学(現:東京大学)国文科を中退。同年、新聞『日本(にっぽん)』の記者となる。
1893年(明治26年)、『獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)』を連載し、俳句の革新運動を開始する。1894年(明治27年)、日清戦争が勃発。翌1895年(明治28年)、従軍記者として中国へ赴くが、その帰路に喀血(かっけつ:血を吐く)。松山に帰郷。
「血を吐くまで鳴く」と言われるホトトギスと結核を病み喀血した自分自身を重ね合わせ、ホトトギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とする。その当時、松山中学で英語教師をしていた漱石の下宿に同居して過ごし、俳句会などを開く。帰京後、長い病床生活に入る。
1898年(明治31年)、歌論『歌よみに与ふる書』を『日本』紙上に発表。根岸短歌会を主催して短歌の革新に努める。根岸短歌会は、後に歌人・伊藤左千夫(いとう さちお)・長塚節(ながつか たかし)らにより短歌結社『アララギ』へと発展していく。
写生文を試み、随筆『墨汁一滴(ぼくじゅういってき)』(1901年)、『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』(1902年)、日記『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』(1901~02年)などを書く。1902年(明治35年)9月19日、脊椎カリエスにより死去。34歳。東京都北区田端の大龍寺(だいりゅうじ)に眠る。
俳句や短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼし、明治時代を代表する文学者の一人である。生涯に20万を超える句を詠んだ子規の作品の中で最も有名な句は「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」である。没後の1981年(昭和56年)、松山市に「子規記念博物館」が開館した。
なお、俳句雑誌『ホトトギス』は、1897年(明治30年)に子規の友人である俳人・柳原極堂(やなぎはら きょくどう)により松山で『ほとゝぎす』として創刊された。その誌名は子規の俳号にちなみ、後に『ホトトギス』となった。漱石が小説『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などを発表したことでも知られる。