昭和時代前期の俳人・長谷川素逝(はせがわ そせい、1907~1946年)の忌日。
秋の季語。
1907年(明治40年)2月2日に生まれる。父が兵器の製造を担う軍事工場・大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)の技師であったため大阪府の生まれだが、本籍は三重県津市。本名は直次郎。
1915年(大正4年)、父の退職により津に戻り、津中学校、京都市の第三高等学校を経て、京都帝国大学(現:京都大学)を卒業。中学時代に俳句をはじめ、俳人・鈴鹿野風呂(すずか のぶろ)に師事。
1928年(昭和3年)、野風呂が主宰する俳句雑誌『京鹿子(きょうかのこ)』に投句。また、俳人・高浜虚子(たかはま きょし)にも師事し、『ホトトギス』に投句。
1933年(昭和8年)、俳人・平畑静塔(ひらはた せいとう)らとともに『京大俳句』の創刊に参加するが、志を異にして同誌を去る。同年、俳句雑誌『阿漕(あこぎ)』を創刊・主宰。
1937年(昭和12年)、砲兵少尉として出征するが、病気により帰還。1939年(昭和14年)、戦争を詠んだ句を集めた句集『砲車(ほうしゃ)』を刊行。俳壇での地位を確立する。
兵庫県神戸市の甲南高等学校(現:甲南大学)の教授を務める。1946年(昭和21年)、『桐の葉(きりのは)』を主宰。同年10月10日、津市の陸軍療養所で結核により死去。39歳。
その他の著書に、句集『三十三才』『ふるさと』『村』『暦日』、評論集『俳句誕生』などがある。また、津市の阿漕海岸公園に句碑が建立されており、「遠花火海の彼方にふと消えぬ」と刻まれている。