江戸時代後期の読本作者・戯作者の曲亭馬琴(きょくてい ばきん、1767~1848年)の忌日(旧暦)。
1767年(明和4年)、江戸・深川(現:東京都江東区平野)に五男として生まれる。本名は滝沢興邦(たきざわ おきくに)で、後に解(とく)と改める。別号に著作堂主人(ちょさどうしゅじん)など。父は旗本・松平信成(まつだいら のぶなり)の用人・滝沢運兵衛興義(おきよし)。
幼い時から絵草紙(えぞうし)などの文芸に親しみ、7歳で発句を詠んだという。1775年(安永4年)9歳の時、父が亡くなり、一旦は武家奉公(ぶけぼうこう)。1790年(寛政2年)24歳の時、戯作(げさく)を志し、浮世絵師・戯作者の山東京伝(さんとう きょうでん)に師事する。
翌1791年(寛政3年)、江戸で流行していた壬生狂言(みぶきょうげん)を題材に大栄山人(だいえいさんじん)の名で黄表紙(きびょうし)『尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』を刊行。戯作者として出発する。
以後、合巻(ごうかん)・読本(よみほん)と盛んに著作。史伝物に特色があり、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の理念と因果応報(いんがおうほう)の道理を雅俗折衷(がぞくせっちゅう)の文体で描く。1807年(文化4年)から刊行が開始された読本『椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)』などにより名声を築く。
1814年(文化11年)に読本『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』の刊行が開始される。長男・宗伯興継(そうはく おきつぐ)の死(1835年)や生活苦、晩年の失明など様々な困難の中で、28年をかけて1842年(天保13年)に完結。全98巻・106冊の大作であり、日本文学史上最大の長編小説となる。
1848年(嘉永元年)11月6日、82歳で死去。墓は東京都文京区小日向の深光寺(しんこうじ)にある。その他の著書として、読本『俊寛僧都島物語(しゅんかんそうずしまものがたり)』(1808年)や『近世説美少年録(きんせせつびしょうねんろく)』(1829~48年)などがある。