昭和時代の小説家・島尾敏雄(しまお としお、1917~1986年)の忌日。
この日には島尾敏雄の遺徳を偲び、奄美大島の鹿児島県奄美市名瀬において「島尾忌」が行われる。親族や関係者などが参列し、黙祷や花が捧げられる。
1917年(大正6年)4月18日、神奈川県横浜市戸部に6人兄弟の長男として生まれる。父・島尾四郎は輸出絹織物売込商を営み、両親ともに福島県相馬郡小高町(現:南相馬市)の出身。体の弱い内気な子供で、家の中で一人で遊ぶことが多かったという。
1930年(昭和5年)、兵庫県立第一神戸商業学校(現:星陵高等学校)に入学。山岳部に入り、病弱だった体が健康になっていく。在学中に友人と同人誌『少年研究』を発行したり、『峠』に参加したりする。同校を卒業後、1936年(昭和11年)、長崎高等商業学校に入学。
後の詩人・矢山哲治(ややま てつじ)らと同人誌『十四世紀』を創刊。この頃、ロシア語を学習する傍らドストエフスキー、プーシキン、チェーホフなどロシア文学を耽読(たんどく:読みふけること)する。1939年(昭和14年)、同校を卒業。
1940年(昭和15年)、九州帝国大学法文学部経済科に入学。翌年、同大学の法文学部文科に再入学し、東洋史を専攻する。同じ研究室の一級下に後の小説家・庄野潤三(しょうの じゅんぞう)がおり親交を結ぶ。佐藤春夫(さとう はるお)・木山捷平(きやま しょうへい)らを共通して好んだ。
1943年(昭和18年)に同大学を卒業、海軍予備学生を志願。第一期魚雷艇学生として1944年(昭和19年)から神奈川県横須賀市田浦の海軍水雷学校で訓練を受ける。同年、第十八震洋特攻隊指揮官として、180名ほどの部隊を率いて奄美群島加計呂麻島呑之浦基地へ赴く。
この島で後に妻となる小説家・島尾ミホと出会う。1945年(昭和20年)8月13日、出撃命令を受けるが、即時待機状態のままラジオで「玉音放送(ぎょくおんほうそう)」を聞き、敗戦を知る。
戦後、実家のある神戸で文学活動を開始。1949年(昭和24年)、戦争体験を描いた「出孤島記(しゅつことうき)」を文芸雑誌『文藝(ぶんげい)』に発表、第1回戦後文学賞を受賞。妻ミホが精神的な病を患い、1955年(昭和30年)に病気療養のため妻の故郷・奄美大島に移住。
1958年(昭和33年)、奄美大島に奄美日米文化会館を母体として鹿児島県立図書館の奄美分館が設置され、初代分館長となる。1960年(昭和35年)に家庭生活を描いた『死の棘(しのとげ)』を刊行、芸術選奨(1961年)・読売文学賞(1977年)・日本文学大賞(1978年)を受賞。この作品は1990年(平成2年)に映画化もされた。
1976年(昭和51年)、『日の移ろい』を刊行、第13回谷崎潤一郎賞を受賞。1981年(昭和56年)、日本芸術院賞を受賞。同年、日本芸術院会長となる。
1982年(昭和57年)、「湾内の入江で」を文芸雑誌『新潮(しんちょう)』に発表、第10回川端康成文学賞を受賞。1985年(昭和60年)、連作集『魚雷艇学生(ぎょらいていがくせい)』を刊行、第38回野間文芸賞を受賞する。
1986年(昭和61年)11月12日、出血性脳梗塞のため死去。69歳。墓地は福島県南相馬市の共同墓地。
その他の作品として、『単独旅行者』(1947年)、『島の果て』(1948年)、『夢の中での日常』(1948年)、『われ深きふちより』(1955年)、『出発は遂に訪れず』(1962年)などがある。