明治~昭和時代前期の物理学者・随筆家の寺田寅彦(てらだ とらひこ、1878~1935年)の忌日。
この日は「寅彦忌」の他に、筆名の寅日子(とらひこ)にちなみ「寅日子忌」とも表記され、別の筆名の吉村冬彦(よしむら ふゆひこ)にちなみ「冬彦忌」とも呼ばれる。
1878年(明治11年)11月28日、東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)に長男として生まれる。父・寺田利正は高知県士族(旧足軽)。寅年寅の日であったことから、寅彦と命名される。上記以外の筆名に藪柑子(やぶこうじ)など。
1881年(明治14年)、祖母・母・姉と共に郷里の高知県高知市に転居。1896年(明治29年)、熊本の第五高等学校(熊本大学の前身)に入学。英語教師・夏目漱石(なつめ そうせき)に英語と俳句、物理学教師・田丸卓郎(たまる たくろう)に物理と数学を学ぶ。両者から大きな影響を受け、科学と文学を志す。
1903年(明治36年)、東京帝国大学理科大学実験物理学科を首席で卒業、大学院に進学。1909年(明治42年)、東京帝国大学理科大学助教授となり、地球物理学研究のためドイツのベルリン大学に留学。
1916年(大正5年)、東京帝国大学理科大学教授(物理学)に就任。同大学の航空研究所や地震研究所、理化学研究所の研究員を兼務。地球物理学・気象学・応用物理学・海洋物理学・地震予防と防災など多方面で研究を行い、各分野に独創的な業績を残す。
1913年(大正2年)の「X線による結晶構造解析(ラウエ斑点)の研究」は世界的に知られ、この業績により1917年(大正6年)に帝国学士院恩賜賞を受賞。
一方で、優れた随筆家としても知られる。五高在学中より夏目漱石に師事し、『冬彦集』(1923年)や『藪柑子集』(1923年)など科学と文学を巧みに調和させた随筆を数多く残す。
1935年(昭和10年)12月31日、転移性骨腫瘍により東京市本郷区駒込曙町(現:東京都文京区本駒込)の自宅で死去。57歳。墓地は高知市の王子谷墓地。
その他の著書として、『柿の種』(1933年)、『蒸発皿』(1933年)、『蛍光板』(1935年)、『寺田寅彦全集』(全18巻・岩波書店・1950~51年)などがある。また、寺田寅彦の業績を記念し、高知県文教協会が寺田寅彦記念賞を設立している。