今の東京は徳川家15人の将軍によりつくられた

今の東京は15人の徳川将軍の礎の上に立っている。初代将軍・徳川家康が江戸に来た時は辺り一面が湿地帯で人が住めるような土地ではなかった。家康が土木工事をやって徳川15代将軍がそれを受け継いでいき、ど田舎だった江戸が今の大都会東京になった。

江戸ができた理由

そもそもなぜ家康が江戸の地に来たかというと、家康の力を恐れた豊臣秀吉により今の名古屋を中心に広大だった領地からど田舎だった江戸へ飛ばされてしまった。家康の町づくりはゼロから始まった。

家康以前の江戸は皇居のすぐ近くまでが海だった。江戸時代は日比谷に入り江があり、丸の内の和田倉門交差点はかつては海に面していた。「和田」とは「ワダ(海)」を意味し、海に面した倉庫があったことに由来する。家康は人が住む場所をつくるため、まずは今の日比谷公園と丸の内のオフィス街を埋め立てた。

水路と首都高速道路

首都高速道路も家康がつくったと言っても過言ではない。江戸は「水の都」で家康が江戸発展のためにつくった水路の上に首都高速がつくられている。日本橋では下を水路が流れ、上を首都高速が走っている。自動車もなかった江戸において、家康は効率よく荷物を運ぶために水路へ発展させ、一度に大量に運べる仕組みをつくった。

1964年(昭和39年)の東京オリンピックの時に首都高速はつくられたが、住んでいる人をどかせなかったため水路の上につくったのだ。これにより土地を買収する必要もなかった。首都高速がぐねぐね曲がっているのは水路だった名残である。

お堀と線路、見附と駅

3代将軍・家光は家康がつくった城のお堀の後を受けて、さらにその外側にお堀(外堀)をつくった。その外堀が今の線路になっている。家光の偉業が分かるのが四ツ谷駅、市ケ谷駅、飯田橋駅で、駅の位置が城を守る「見附」というお堀の見張り台があった場所になっている。赤坂見附駅もかつて見張り台があった場所である。見張り台は枡形(ますがた)をした枡形門で内側に大きな広場があり、この広場を利用して駅がつくられた。

外堀を走る中央線・総武線の東京~新宿間は他の路線で見るはずの踏切がない。これは電車がお堀のあった低い場所を通るためで、人や車は橋の上を通り、電車はその下を通っている。

全長15kmにもわたる外堀は家光最大の都市開発だった。家光はこの外堀の工事費用を大名たちに負担させた。それにより諸大名はお金を使い、力も弱まり、徳川家の力を確固たるものにした。外堀工事にかかった期間はなんと3ヵ月だった。この外堀のおかげで線路ができ、駅もつくることができた。

火除け地と繁華街

4代将軍・家綱は庶民のことを第一に考え、町の安全を守った。江戸が誕生してから50年が過ぎ、町は徐々に発展していたが、この時代には火事という大きな悩みがあった。1657年(明暦3年)に「明暦の大火」という歴史的な大火事が発生し、燃え盛る炎は江戸の町の6割を焼き、10万人の被害が出た。この火事で江戸城の天守閣も焼失してしまった。

そこで立ち上がったのが庶民を大切に思う家綱で、その偉業が分かるのが御茶ノ水駅のすぐ近くにある昌平橋の交差点である。昌平橋を渡った所には広い広場があり、そこは江戸時代は防火用の空き地で「火除け地」(ひよけち)だった。

江戸時代の建物は密集していて、しかも木で出来ていたため、火事が起きるとすぐに延焼して火が広がってしまった。そこで、家綱は火が簡単に隣に移らないように町に一定間隔で火除けの空き地をつくって庶民を守った。「上野広小路」という地名や駅名など今でも名前が残っているが、「広小路」というのは元は火除けのための空き地だった場所である。

その火除けの空き地が今の繁華街になったという。火除け地は火が移らないように建物を建てることが禁止されていた。唯一許されていたのがすぐに壊せる屋台だった。その結果、火除け地に屋台がたくさん並び、逆に人が多く集まってしまい、繁華街へと発展していった。浅草の雷門の前は今でもにぎわっていて大きな道路があるが、そこも元は火除け地だった。江戸時代からのにぎわいが今に続いている場所である。家綱の偉業は、火除け地のための空き地をつくり、繁華街の礎を築いたことにある。

武力から知力へ

5代将軍・綱吉といえば「生類憐れみの令」だが、武力から知力の時代へと変え、大学のもとをつくった将軍でもある。綱吉の偉業が今でも残っているのが、日本大学や明治大学などがある大学密集地帯の御茶ノ水駅からすぐ近くにある「湯島聖堂」。その湯島聖堂は1690年に綱吉が建築したものを昭和になり再建したもので、儒学の創始者である孔子を祀った聖堂である。

代々の徳川将軍が我々に与えた恩恵は町づくりだけでなく、世界でも高水準とされる日本人の教育レベルは江戸時代の将軍のお陰と言っても過言ではない。綱吉は聖堂をつくり、誰もが儒学を学べるように町人にも開放した。儒学は国の教えのようなもので、綱吉は勉強したい人は誰でも無料で学べる場所として寺子屋をつくり、これが現在の学校の始まりとなった。

湯島聖堂はほとんどが関東大震災や戦争で焼けてしまい、ほとんどが復元された建物だが、本殿前の4枚の石だけが江戸時代から残っている。奇跡的に残った4枚の石は本殿前の中央に並べられ、色が他の石と違うので見て確認できる。

綱吉の偉業は湯島聖堂をつくり大学の礎を築いたことにある。学びの場は学校へと姿を変え、学校が増えると学生が増える。学生が増えると書店が増える。湯島聖堂のある御茶ノ水のすぐ隣に書店が集まり、それが今では多くの古書店が並ぶ神保町の由来である。

動物園の源流

8代将軍・吉宗は暴れん坊将軍として有名だが、財政の悪化した幕府を倹約政策で再建するなど堅実派だった。さらに目安箱や無料の病院として小石川療養所をつくるなど庶民のために尽力した人物である。

そんな吉宗は今の動物園の日本の源流をつくったと言っても過言ではない。動物園は明治維新になってヨーロッパから入って来たが、動物を庶民に見せて紹介しようとしたのは吉宗だった。吉宗はいろいろな動物を外国から連れてきて江戸の庶民に見せた。その1つがゾウで、1728年に中国経由でベトナムから輸入した。ゾウは吉宗が連れてくる前も日本に来てはいたが、時の権力者に贈られたもので、ゾウを庶民が見ることはできなかった。

吉宗の偉業は庶民に見せるために自らゾウを中国に注文したこと。日本にゾウを連れて来た時はゾウブームが起きたと言われている。吉宗が注文したゾウは長崎に上陸し、船ではなく長崎から江戸まで2ヵ月かけて少しずつ歩いて来た。江戸では庶民に大人気でウンチまで売れたという。

桜並木の理由

吉宗は他にも桜並木を整備して庶民に見せた。上野公園や隅田川の川岸などに桜並木があるが、花見文化を日本中の庶民に広めた。隅田川の土手に桜を植えたことには桜を見せるためだけでなく、もう1つの理由があり、それが花見客に隅田川の土手を踏み固めてもらい、土手をより強固なものにするためだった。花見をする人が桜を見ながら自然に歩くが、吉宗はそれを利用して度々決壊する土手を踏み固めてもらおうと考えた。

江戸の町ができておよそ130年。吉宗の偉業はゾウや桜で庶民のための観光名所をつくったことにある。

グルメと芸術

11代将軍・家斉はグルメや芸術を発展させた将軍で、50人以上の子どもがいた、子だくさん将軍としても有名である。江戸のグルメといえば、お寿司、天ぷら、うなぎだった。当時、今あるミシュランガイドのようなグルメ番付があった。

江戸時代につくられたうなぎの蒲焼の番付に載っていて、今もまだ営業しているお店がある。それが江戸時代から続く創業約200年前の駒形のうなぎ料理専門店「前川」である。うな重は5,184円となっている。タレは江戸時代から変えず、継ぎ足しで今に至っている。震災の時などは大八車でタレ瓶をもって逃げたと伝えられている。

江戸時代には外食の文化が発展したが、これは江戸に外から男性が働きに来て、女性が少なかったことが原因とされている。家斉が将軍だった1787~1837年の50年間は比較的平和な時代で、締め付けや規制をしなかったために町人の文化が発展した。特に浅草には独身の職人が集まり、屋台で食事をし、外食文化が発展していった。

さらにグルメだけでなく芸術も発展した時代で、写楽や葛飾北斎など有名な芸術家もこの時代に活躍した。

日本を守った最後の将軍

15代将軍・慶喜は世界から日本を守った最後の将軍で、江戸幕府が開かれてからおよそ260年が経ち歴史は大きく動いた。慶喜は西郷隆盛などを中心に反幕府運動が激しくなる中で15代将軍に就任し、反幕府軍と争うことなく在位期間10ヵ月で天皇に政権を返す「大政奉還」(1867年)を行い、徳川幕府を終わらせた。

反幕府軍と戦えば勝っていたとも言われているが、当時の日本の一番大きな問題はフランスやイギリスなどの列強諸外国で、1853年の黒船来航以降、日本は諸外国の軍事力に圧倒されていた。そんな中、慶喜が最も恐れたのが国内での争いで、日本人同士が争っているその隙につけこんで諸外国が入り込んで、日本が植民地にされる危険性があった。

実際、隣の中国は植民地にされてしまい、その状況を見ていたこともあり慶喜は内戦を避けた。内戦を起こさせないために慶喜が出した決断が徳川幕府を終わらせることだった。幕府を終わらせることにより江戸の町、ひいては日本を守ることを選択した。慶喜は260年かけてつくられた江戸の町を守り、今の東京に残した。

2017/10/7

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カテゴリー「歴史・文化

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