浅草が若者文化や芸能の中心だった理由

昭和時代の中期1960年代まで東京・浅草は若者文化や芸能の中心地だった。これには江戸城(現:皇居)との位置関係に理由がある。

江戸時代の浅草(猿若町)
江戸時代の浅草(猿若町)

江戸時代の当時、庶民に大人気だったのが歌舞伎や人形浄瑠璃などの芝居である。これらは現在では日本の伝統芸能とされるが、当時は庶民に最も人気のある娯楽であった。しかし、芝居は心中や情死を題材とした心中物などがあり、風紀が乱れるという理由で幕府が禁止した例もあった。

そんな芝居を興行する建物が「芝居小屋」であり、芝居の人気とともに数多くの芝居小屋が建てられた。しかし、上記のように風紀の乱れを心配した幕府は、当時の江戸城の近く、現在の千代田区あたりに芝居小屋を建てることを制限した。これは江戸で頻発していた火災への対応でもあった。

そして、江戸時代の三大改革の一つに数えられる「天保の改革」により、1841年(天保12年)に江戸城から少し離れた浅草に強制的に芝居小屋が移転させられた。その結果として、浅草が「芝居の町」となり、若者文化や芸能の中心地となっていった。その浅草の芝居町が上の画像の「猿若町」である。猿若町は現在の台東区浅草6丁目にあたる。

また、浅草は芸者屋や遊女屋が集まる「花街」でもあった。江戸時代の当時、家庭内で夫が妻に「花街に遊びに行く」と言うと怒られるが、「浅草寺に行く」と言えばお参りということで許しが出たという話も残っている。芝居町や花街としての浅草は江戸時代に大いに盛んになり、それが昭和時代まで続いた。

リンク国立国会図書館Wikipedia

2020/7/16

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カテゴリー「歴史・文化

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