明治・大正時代の俳人・政治家である角田竹冷(つのだ ちくれい)の1919年(大正8年)の忌日。
この日は別号の「聴雨窓(ちょううそう)」から「聴雨窓忌」とも呼ばれる。
1857年6月4日(安政4年5月2日)、駿河国加島(現:静岡県富士市)に農業・角田彦右衛門の二男として生まれる。本名は真平(しんぺい)。姓は「かくた」や「すみだ」を正しいとする説もある。
1874年(明治7年)に上京し法律学を修める。1880年(明治13年)、代言人(弁護士)試験に合格。東京府会議員、神田区会議員、牛込区会議員、東京市会議員、東京市臨時市区改正局長兼水道局長などを歴任。
その他、跡見女学校理事、秀英舎取締役、中央窯業取締役、帝国劇場取締役、東京株式取引所理事などを務める。1892年(明治25年)、衆議院議員に当選(計7回当選)。
一方、俳人としても知られ、1895年(明治28年)、38歳で尾崎紅葉、巌谷小波、森無黄、大野洒竹らとともに正岡子規と並ぶ新派の「秋声会」の創設に関わる。1896年(明治29年)に俳誌『秋の声』を創刊、のち『卯杖』『木太刀』と改題。
脳出血のため61歳で死去。著書に『聴雨窓俳話』(1912年)などがあり、没後に句集『竹冷句鈔』(1920年)が刊行された。古俳書の収集家としても有名で、その蔵書は現在「竹冷文庫」として、東京大学総合図書館に収蔵されている。