昭和時代の歌人・劇作家である寺山修司(てらやま しゅうじ)の1983年(昭和58年)の忌日。
青森県三沢市にある「三沢市寺山修司記念館」では、この日を中心に「春のフェスティバル」が開催され、献花や短歌・詩の朗読などが行われる。
1935年(昭和10年)12月10日、青森県弘前市に生まれる。本籍地は現在の三沢市。父・八郎は東奥義塾弁論部OBで当時弘前警察署勤務。父の転勤のため、県内各所を転々とする。早稲田大学教育学部国文学科(現:国語国文学科)を中退。
高校時代に俳句を中心とした文学活動を展開。山口誓子、橋本多佳子らの知遇を得る。のち短歌に転進。1954年(昭和29年)に『チェホフ祭』50首で「短歌研究」新人賞を受賞。詩壇・歌壇の注目を集める。
腎臓疾患のネフローゼを発病し、数年の入院生活を送る。1957年(昭和32年)に第一作品集『われに五月を』、翌1958年(昭和33年)に第一歌集『空には本』を刊行する。
1959年(昭和34年)に谷川俊太郎の勧めでラジオドラマを書き始め、翌1960年(昭和35年)には篠田正浩督『乾いた湖』のシナリオを担当、同年戯曲『血は立ったまま眠っている』が「劇団四季」で上演され、脱領域的な前衛芸術家として注目を浴びる。
1967年(昭和42年)に横尾忠則らと劇団「天井桟敷(さじき)」を結成。見世物の復権を唱え、徹底した前衛性と市街の劇場化などで国内外にセンセーションを巻き起こす。敗血症のため47歳で死去。
代表作に『毛皮のマリー』(1967年)、『奴婢訓(ぬひくん)』(1978年)など。映画『田園に死す』(1974年)ほか、ボクシング・競馬の評論など、多彩な活動を行った。1997年(平成9年)、三沢市寺山修司記念館が建てられた。