昭和時代の小説家・詩人である高見順(たかみ じゅん)の1965年(昭和40年)の忌日。
「荒磯忌(ありそき)」の名称は、高見順の詩『荒磯』にちなむ。
1907年(明治40年)1月30日、福井県坂井郡三国町(現:坂井市三国町)平木に生まれる。本名は高間芳雄(たかま よしお)。父は福井県知事・阪本釤之助(さかもと さんのすけ)、母は高間古代(たかま こよ)で、婚外子。
1908年(明治41年)、母と共に上京する。実父と一度も会うことなく、母が針仕事で生計を立てる。第一高等学校を経て、1930年(昭和5年)に東京帝国大学文学部英文科を卒業。コロムビア・レコードに勤務。
プロレタリア文学運動に参加し、1933年(昭和8年)に治安維持法違反の疑いで検挙され、転向。留置中妻に去られ、転向と家庭崩壊の二重苦の中で書いた小説『故旧忘れ得べき』(1935年)が第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。
第二次大戦前では他に説話体の手法を提示、浅草の風俗を描いた『如何なる星の下に』(1939年)などがある。
戦後に小説『わが胸の底のここには』(1946~47年)、『いやな感じ』(1960~63年)、詩集『樹木派』(1950年)、『死の淵より』(1964年)の他、死の直前まで書き、昭和史の資料ともなった日記『高見順日記』や、評論『昭和文学盛衰史』(1958年)などがある。
晩年には、近代文学の資料の散逸を防ぐため、日本近代文学館の創設に尽力する。しかし、落成間近の1965年(昭和40年)8月17日、食道癌のため千葉県千葉市の病院で死去。58歳。没後、文化功労者が追贈された。