東京都墨田区千歳に事務局を置く公益財団法人・杉山検校遺徳顕彰会が制定。
江戸時代の全盲の鍼灸師・杉山和一(すぎやま わいち、1610~1694年)検校(けんぎょう:役職名)は、無痛で正確に鍼(はり)を刺すことができる画期的な治療法「管鍼術(かんしんじゅつ)」を考案、視覚障害者に技術を伝えるため私塾を開いた。
その私塾が1682年(天和2年)9月18日(旧暦)に幕府公認となったのを機に名称を「鍼治(しんじ)講習所」と改め、ここから組織的な視覚障害教育が始まり、明治時代の盲学校設立後の職業教育につながっていく。この功績を称え、後世へと伝えていくことが目的。
「鍼治講習所」は世界初と認識されていた1784年のフランスの盲人教育所開設よりも100年余り早い。日付は幕府公認となった9月18日(旧暦)を記念日としたもの。
記念日は2023年(令和5年)8月3日に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
杉山和一は伊勢国安濃津(現:三重県津市)出身の鍼灸師。検校であることから杉山検校とも称される。津藩家臣・杉山重政の長男として誕生。幼い頃、伝染病で失明し、家を義弟である杉山重之に譲った。
江戸で検校の山瀬琢一に弟子入りするも生まれつきののろさや物忘れの激しさ、不器用さによる上達の悪さが災いしてか破門される。
実家に帰る際に石に躓(つまず)いて倒れた際に体に刺さるものがあったため確認してみると竹の筒と松葉だったため、これにより管鍼法が生まれる。躓いたとされる石が神奈川県藤沢市にある江島神社参道の途中に「福石」と名付けられて名所になっている。
山瀬琢一の師でもある京都の入江良明を尋ねるも既に死去しており、息子の入江豊明に弟子入りすることとなった。入江流を極めた和一は江戸で開業し、大盛況となった。
江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわ つなよし、1680~1709年)に鍼灸師として仕え、その病を治したことで綱吉の信頼を得た。61歳で検校となり、72歳で綱吉の鍼治振興令を受けて、鍼術再興のために「鍼治講習所」を開設する。そこから多くの優秀な鍼師が誕生している。
1694年(元禄7年)に85歳で死去。江島神社と東京都墨田区立川にある弥勒寺(みろくじ)に葬られている。
東洋鍼灸専門学校校長で、杉山和一の生涯や鍼灸の歴史を研究する大浦慈観は、管鍼術は当時既にあった可能性もあるが、体系化して広めた功績は和一に帰せられると評価している。和一を祭神として祭る東京都墨田区千歳の江島杉山神社境内には杉山和一記念館が設立されている。