昭和~平成時代の小説家・遠藤周作(えんどう しゅうさく、1923~1996年)の忌日。
1923年(大正12年)3月27日、東京府北豊島郡西巣鴨町(現:東京都豊島区北大塚)に第三銀行に勤めていた銀行員・遠藤常久と東京音楽学校ヴァイオリン科の学生・郁の次男として生まれる。雅号は狐狸庵山人(こりあんさんじん)。
父の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごす。1933年(昭和8年)10歳の時に両親は離婚。母に連れられて帰国。1935年(昭和10年)12歳の時に伯母の影響で、兵庫県西宮市にある夙川(しゅくがわ)カトリック教会で洗礼を受ける。
戦後の1948年(昭和23年)、慶應義塾大学文学部仏文科を卒業。在学中、評論『カトリック作家の問題』などを文芸雑誌『三田文学(みたぶんがく)』に発表。フランスのリヨン大学に留学(1950~53年)してカトリック文学を学ぶが、肺結核のため帰国。以後、評論活動を続け、1954年(昭和29年)に初の小説『アデンまで』を発表する。
翌1955年(昭和30年)、小説『白い人』で第33回芥川賞を受賞。創作活動に転じ、1957年(昭和32年)に日本人の罪の意識を追究した『海と毒薬(うみとどくやく)』を発表、小説家としての地位を確立。この作品は第5回新潮社文学賞、第12回毎日出版文化賞を受賞する。
キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作として『海と毒薬』のほかに『沈黙(ちんもく)』(1966年、第2回谷崎潤一郎賞)、『侍(さむらい)』(1980年、第33回野間文芸賞)、『深い河(ディープリバー)』(1993年、毎日芸術賞)などがある。『沈黙』を始めとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受ける。
1979年(昭和54年)、日本芸術院賞を受賞。1981年(昭和56年)、日本芸術院会員に選出。1985年(昭和60年)、日本ペンクラブ第10代会長に就任(~1989年)。1988年(昭和63年)、文化功労者に選出。1995年(平成7年)、文化勲章を受章。
1992年(平成4年)以後、腎臓病のため闘病生活が続く。1996年(平成8年)9月29日、東京都新宿区信濃町にある慶應義塾大学病院で肺炎による呼吸不全のため死去。73歳。
生前の本人の遺志で『沈黙』と『深い河』の2冊が棺の中に入れられた。カトリック府中墓地に埋葬された後、葬儀が行われた千代田区麹町にある聖イグナチオ教会の地下納骨堂に移された。
その他の著書として、小説『青い小さな葡萄(ぶどう)』(1956年)、『死海のほとり』(1973年)、『女の一生』(1982年)、『反逆』(1989年)、『男の一生』(1991年)、ユーモアに富むエッセイ『狐狸庵閑話(こりあんかんわ=こりゃアカンわ)』を始めとする『狐狸庵(こりあん)』シリーズなどがある。
遺族や親交のあった関係者により文学館の建設構想が進められ、2000年(平成12年)に『沈黙』の舞台となった長崎県西彼杵郡外海町(現:長崎市)に「遠藤周作文学館」が開館した。