東京都中央区銀座に本社を置き、アントニオ猪木の肖像権・著作権などを管理する株式会社猪木元気工場が制定。
アントニオ猪木は、プロレスラーとして格闘家として政治家として、多くの人を鼓舞し、多くの人に勇気を与え、多くの人に愛された。
日付はアントニオ猪木こと猪木寛至(いのき かんじ、1943~2022年)の命日2022年(令和4年)10月1日であり、「闘(10)魂Antonio I(1)noki」と読む語呂合わせから10月1日としたもの。
「闘魂」を体現したアントニオ猪木を偲び、その功績・人物像・魅力などを後世に伝え、広めていくことが目的。記念日は2023年(令和5年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
1943年(昭和18年)2月20日、神奈川県横浜市鶴見区に生まれる。父親は猪木が5歳の時に死去。実家は石炭問屋を営んでいたが第二次世界大戦後、世界のエネルギー需要が石炭から石油に変わっていったこともあり倒産。
13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。早朝5時から夕方5時までコーヒー豆の収穫を行うなど過酷な労働を強いられる。
陸上競技選手として現地の大会に出場し、砲丸投げで優勝するなど、その身体能力を発揮する。そして、1960年(昭和35年)にブラジル遠征中の力道山(りきどうざん、1924~1963年)の目に留まり、直接スカウトされる。
同年に日本へ帰国し、日本プロレスに入団。猪木は自身の最強を証明するため、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築く。
中でも1976年(昭和51年)のプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。この戦いでは、互いに決定打を出すことはできず、3分15ラウンドを戦い抜き、引き分けという結果に終わる。
1972年(昭和47年)に新日本プロレスを設立。1982年(昭和57年)、39歳の時に糖尿病が判明。血糖値は通常の5倍という検査結果で体がだるく、思うように動かせない時期もあった。
血液型はAB型、身長は190~191cm、体重は102~110kg。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂」。
1989年(平成元年)、「スポーツを通じて国際平和」を合言葉にスポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙に比例区で初当選し、史上初のレスラー出身の国会議員となる。この時、プロレス界からは引退せず、政治とプロレスの「二足のわらじ」を履いて活動した。
1998年(平成10年)4月4日、東京ドームにおける引退試合に勝利し引退する。引退の際には「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行った。
2022年(令和4年)10月1日、全身性トランスサイレチンアミロイドーシスによる心不全のため東京都港区の自宅で死去。79歳没。予備校生にビンタを打ってしまい生まれた「闘魂ビンタ」など数多くのエピソードが残っている。