直哉忌(10月21日 記念日)

明治~昭和時代の小説家・志賀直哉(しが なおや、1883~1971年)の忌日。

遺族と弟子の申し合わせにより、小説家・芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)の「河童忌(かっぱき)」や、太宰治(だざい おさむ)の「桜桃忌(おうとうき)」のような忌日に故人を偲ぶ集まりは行われていない。

志賀直哉

志賀直哉について

1883年(明治16年)2月20日、宮城県牡鹿郡石巻町(現:石巻市住吉町)に次男として生まれる。父・直温(なおはる)は第一銀行石巻支店に勤務。2歳の時に銀行を辞めた父と共に東京に移る。

幼少期は祖父・祖母に育てられる。1895年(明治28年)に実母が死去。父は再婚。この様子は短編小説『母の死と新しい母』(1912年)に描かれている。1906年(明治39年)、東京帝国大学英文学科に入学。授業にはほとんど出席せず、国文学科に転じるが、1910年(明治43年)に中退。

在学中の1908年(明治41年)、『或る朝(あるあさ)』を執筆。大学中退後の1910年(明治43年)、小説家・武者小路実篤(むしゃのこうじ さねあつ)らと文芸雑誌『白樺(しらかば)』を創刊。その創刊号で短編小説『網走まで(あばしりまで)』を発表する。

父と対立しながら、自我肯定に基づく『大津順吉(おおつ じゅんきち)』(1912年)や『范の犯罪(はんのはんざい)』(1913年)などを発表。1917年(大正6年)に父と和解し、『城の崎にて(きのさきにて)』や『和解(わかい)』(1917年)などを書く。

1921年(大正10年)に唯一の長編小説『暗夜行路(あんやこうろ)』を書き始め、1937年(昭和12年)に完結させる。1941年(昭和16年)、芸術院会員に選出。1949年(昭和24年)、親交を深めていた小説家・谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)と共に文化勲章を受章する。

1971年(昭和46年)10月21日、東京都世田谷区上用賀の関東中央病院で肺炎と老衰のため死去。88歳。葬儀には86歳の武者小路実篤が駆けつけ、弔辞を述べた。墓は港区南青山の青山霊園にあるが、遺骨は盗難に遭って行方不明となっている。

その他の作品として、短編小説『清兵衛と瓢箪(せいべえとひょうたん)』(1913年)、『赤西蠣太(あかにし かきた)』(1917年)、『小僧の神様(こぞうのかみさま)』(1920年)、『灰色の月(はいいろのつき)』(1946年)などがある。

白樺派を代表する小説家の一人であり、「小説の神様」と称せられ多くの日本人作家に影響を与えた。一時期居住していた千葉県我孫子市にある白樺文学館では、直哉の原稿や書簡、ゆかりの品を公開している。

リンクWikipediaコトバンク

このエントリーをはてなブックマークに追加

カテゴリー「10月の記念日」「今日は何の日

関連記事