大正~平成時代の俳人・阿波野青畝(あわの せいほ、1899~1992年)の忌日。
この日は1931年(昭和6年)に刊行された句集『萬両(まんりょう)』にちなみ「万両忌」とも呼ばれる。冬の季語。
青畝は、昭和初期に俳人・水原秋桜子(みずはら しゅうおうし)、高野素十(たかの すじゅう)、山口誓子(やまぐち せいし)と共に「ホトトギスの四S」と称された。
1899年(明治32年)2月10日、奈良県高市郡高取町に四男として生まれる。旧姓は橋本。本名は敏雄。父・橋本長治は八木銀行高取支店長で士族の家系。
幼少の時に耳を患い難聴となる。1913年(大正2年)、奈良県立畝傍中学校(現:県立畝傍高等学校)に入学。1915年(大正4年)、俳句雑誌『ホトトギス』を知り、奈良県立郡山中学校(現:県立郡山高等学校)で教師をしていた『ホトトギス』同人の原田浜人(はらだ ひんじん)のもとで俳句を学ぶようになる。
1917年(大正6年)、郡山の句会で俳人・高浜虚子(たかはま きょし)と出会い、師事する。畝傍中学を卒業後、八木銀行(現:南都銀行)に入行。1922年(大正11年)、俳人・野村泊月(のむら はくげつ)の俳句雑誌『山茶花(さざんか)』の創刊に参加。
1923年(大正12年)、大阪市西区京町堀の商家の娘・阿波野貞の婿養子となり阿波野姓となる。1924年(大正13年)、25歳にして『ホトトギス』課題選者に就任。1929年(昭和4年)、郷里・奈良県八木町(現:橿原市)の俳人・多田桜朶らが俳句雑誌『かつらぎ』を創刊、請われて主宰となる。同年、『ホトトギス』同人。
1973年(昭和48年)、『甲子園』(1972年)他で第7回蛇笏賞(だこつしょう)、西宮市民文化賞を受賞。1974年(昭和49年)、大阪府芸術賞を受賞。俳人協会顧問。1975年( 昭和50年)、勲四等瑞宝章(ずいほうしょう)を受章。俳人協会関西支部長。
1990年(平成2年)、『かつらぎ』主宰を俳人・森田峠(もりた とうげ)に譲り、名誉主宰に就任。1992年(平成4年)、『西湖』により第7回詩歌文学館賞を受賞。同年12月22日、兵庫県尼崎市の病院で心不全により死去。93歳。
その他の著書として、句集『花下微笑(かかびしょう)』(1940年)、『国原(くにはら)』(1942年)、『春の鳶(はるのとび)』(1952年)、『紅葉の賀(もみじのが)』(1962年)、『除夜』(1986年)、俳論集『俳句のこころ』(1975年)などがある。