大正・昭和時代の詩人・金子光晴(かねこ みつはる)の1975年(昭和50年)の忌日。
1895年(明治28年)12月25日、愛知県海東郡越治村(現:津島市下切町)の酒商の家に生まれる。本名は安和(やすかず)。実弟の秀三(ひでぞう)は詩人・小説家の大鹿卓(おおしか たく)。
早稲田大学高等予科文科、東京美術学校(現:東京芸術大学)日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。アメリカの詩人ウォルト・ホイットマン(Walter Whitman、1819~1892年)、イギリスの詩人エドワード・カーペンター(Edward Carpenter、1844~1929年)に影響を受ける。
1919年(大正8年)、初の詩集『赤土の家』を刊行。同年から2年間、ヨーロッパへ留学。ベルギーの詩人エミール・ヴェルハーレン(Émile Verhaeren、1855~1916年)に強い影響を受ける。
帰国後、1923年(大正12年)に詩集『こがね虫』を刊行。1927年(昭和2年)、妻で詩人の森三千代(もり みちよ、1901~1977年)と共著の詩集『鱶(ふか)沈む』を刊行。翌1928年(昭和3年)、妻と共に数年に及ぶアジア・ヨーロッパの旅に出発。
帰国後の1937年(昭和12年)、戦争を批判的に描いた詩集『鮫(さめ)』を刊行。1940年(昭和15年)、紀行文『マレー蘭印紀行』を刊行。戦後、反戦詩集『落下傘(らっかさん)』『蛾(が)』(1948年)、『鬼の児の唄』(1949年)を刊行。
1954年(昭和29年)、詩集『人間の悲劇』で第5回「読売文学賞」を受賞する。1975年(昭和50年)6月30日、気管支喘息による急性心不全で東京都武蔵野市吉祥寺本町の自宅にて死去。79歳。
その他の著作に、詩集『女たちへのエレジー』(1949年)、『IL(イル)』(1965年)、『若葉のうた』(1967年)、評論『絶望の精神史』(1965年)、自伝小説『どくろ杯』(1971年)、『金子光晴全集 全15巻』(1975年)などがある。一般的に鋭い自己と現実批判、抵抗、反骨の詩人として知られる。