瓠堂忌(12月13日 記念日)

大正~昭和時代の陽明学者・思想家の安岡正篤(やすおか まさひろ、1898~1983年)の忌日。

「瓠堂忌(こどうき)」の名称は、安岡の雅号「瓠堂(こどう)」に由来する。

安岡正篤について

1898年(明治31年)2月13日、大阪府大阪市中央区旧順慶町(現:中央区長堀)に四男として生まれる。父・堀田喜一は素封家(そほうか:財産家)。高知県貫属士族で東京在住の安岡盛治の養子となる。

1922年(大正11年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。大学卒業後、文部省に入省するも半年で辞す。当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張。

1927年(昭和2年)、伯爵・酒井忠正(さかい ただまさ)の援助により私塾・金鶏学院(きんけいがくいん)を設立。日本精神を鼓舞して、軍部や官界・財界に支持者を広げていく。

1932年(昭和7年)、日本主義に基づいた国政改革を目指し、政治団体・国維会(こくいかい)を設立。新官僚の本山となり、斎藤・岡田両内閣に閣僚を送り込むなど、注目を集めるが、一方で政界の黒幕的な見方も強まり、2年後には解散。

戦時中は大東亜省顧問として外交政策などに関わる。1945年(昭和20年)、8月15日の玉音放送(ぎょくおんほうそう)と呼ばれる終戦の詔勅(しょうちょく:天皇が公に意思を表示する文書)の原案を添削。

戦後の1949年(昭和24年)、全国師友協会を設立。次代の指導者の育成や、各地を巡っての講演、ラジオによる講話などを行い、陽明学を基礎とした東洋思想の普及に努める。

1983年(昭和58年)12月13日、85歳で死去。葬儀は東京都港区南青山にある青山葬儀所で執り行われ、政界からは当時の首相・中曽根康弘(なかそね やすひろ)を始め、田中・福田・鈴木の各歴代首相が並び、会葬者は2千有余であった。

主な著書として、『王陽明研究』(1922年)や『日本精神の研究』(1924年)、『東洋倫理概論』(1929年)などがある。

リンクWikipediaコトバンク

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カテゴリー「12月の記念日」「今日は何の日

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