イギリスは英語、フランスはフランス語、ドイツはドイツ語、日本は日本語。しかし、授業ではなぜか「日本語」ではなく「国語」という科目である。
なぜ学校の授業科目は「日本語」ではなく「国語」という名称なのか。それは国として日本を一つにするという意味が込められていたためである。
江戸時代、日本はそれぞれの大名が支配する300近くの地域に分かれており、それぞれ藩と呼ばれた。その藩という独立国が集まった状態が日本という国だった。そして、藩によって言葉はそれぞれ違い、生まれた藩から出ずに一生を終える人も多かった。
そのため、出身地の言葉である御国言葉(おくにことば)だけで何不自由なく生活できた。そして、江戸時代には日本の共通語は存在しなかった。その後、幕末の頃になると様々な地方から人が集まるようになったが、それぞれの言葉がずいぶん違い、お互いの言葉がよく分からない状況だった。
現在でも日本の国の中で北の地方と南の地方では言葉がずいぶん違い、会話をするのが難しい場合もある。江戸時代にはテレビやラジオはなく、普段使っている自分の地域の言葉だけで生活はできたが、国全体として見ると、どうしても共通の言葉が必要となる時代が到来していた。
明治時代、中央政府が全国を治めるようになった。そして、日本列島を一つ国、一つの国民だという形で、大日本帝国としての日本という国が制度化されていった。その中で、日本を一つの国にまとめ上げるための手段として、誰もが共通して理解できる標準語が必要との意見が高まっていた。
そして、日本を一つの国にする言葉を「国語」と呼ぶようになり、それを教える授業の名称も「国語」となった。東京帝国大学の文学部長であり、言語学者の上田万年(うえだ かずとし、1867~1937年)が「國語(国語)」という言葉を使い、日本の発展には言葉が重要だと説いたことも大きなきっかけとなった。
しかし、標準語を長く日本の中心であった京都の言葉にするか、首都である東京の言葉にするか、という問題があった。この問題は10年以上の長い年月の間、結論が出なかったが、最終的に1904年(明治37年)に標準語問題に決着がつき、東京の教養ある人々が使う言葉を標準語とし、それを子ども達に教えることが決定された。
このように「国語」には標準語により日本を一つにするという目的があった。そして、授業科目の「国語」において東京の言葉が日本の標準語として教えられ、日本の国民全員が同じ言葉を理解できるようになった。
2020/1/18
カテゴリー「歴史・文化」