ピンボーイの給料が高かった理由

「ピンボーイ」とは、ボウリングにおいて倒れたピンを立てる作業を行っていた人のことである。そのピンボーイの給料は高かった。

ボウリング

日本で初めて本格的な民間ボウリング場がオープンしたのは1952年(昭和27年)とされる。その場所は東京都港区青山で、「東京ボウリングセンター」という名前だった。その当時は現在のように自動でピンを立てる機械はなく、ピンボーイと呼ばれる人が手作業でピンを立てていた。

小学校教師の初任給が5850円だった時代に、ピンボーイの月給は1万円と高額な給料を得ていた。その理由はピンボーイの仕事はとても危険だったためである。

ピンボーイが待機していた場所はピンの裏側で、転がってきたピンや飛び散ったピンがピンボーイの体や頭に直撃して怪我をする人がいた。ひどい場合には骨折をする人もいたという。

1960年(昭和35年)頃まではピンボーイが手動でピンを立てていたが、その後、今では当たり前のピンを自動でセットする「ピンセッター」と呼ばれる機械が導入された。これを一つのきっかけとして、ボウリングはその人気と共に全国に広まっていったが、一方でピンボーイの仕事はなくなり、その姿を消すこととなった。

リンクWikipediaコトバンク

2020/3/11

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カテゴリー「スポーツ

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