薄桜忌(6月10日 記念日)

大正・昭和・平成にかけて活躍した小説家・随筆家である宇野千代(うの ちよ)の1996年(平成8年)の忌日。

「薄桜忌(はくおうき)」の名称は、岐阜県本巣郡根尾村(現:本巣市)にある樹齢1500年以上のエドヒガンザクラの古木である「薄墨桜(淡墨桜:うすずみざくら)」をこよなく愛したことに由来する。1975年(昭和50年)に小説『薄墨の桜』が刊行されたほか、生前に薄墨桜の保護を訴え活動していた。この日には墓参りや寺院での法要、生家での偲ぶ会などが行われる。

宇野千代

宇野千代について

1897年(明治30年)11月28日、山口県玖珂郡横山村(現:岩国市)で酒造業を営む裕福な家に生まれる。父親は博打好き。母親は千代が幼い頃に亡くなり、父親は千代と12歳しか違わない若い娘と再婚。千代は実母と思って育ち、大変慕っていた。この継母が『おはん』(1947~57年)のモデルとされる。

岩国高等女学校(現:山口県立岩国高等学校)を卒業。14歳で義母の姉の子(従兄)と結婚するが10日ほどで実家へ帰る。小学校の代用教員となるが退職。その後、朝鮮・京城へ行くがとんぼ返りで舞い戻り、元夫の弟と結婚。京都に住んだ後に上京。

東京・本郷三丁目の西洋料理店・燕楽軒で給仕のアルバイトを18日間している間に小説家の久米正雄(くめ まさお)や芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)と知り合い、今東光(こん とうこう)とは親交を結んだ。その後、北海道へ行く。

1921年(大正10年)『時事新報』の懸賞短編小説に『脂粉の顔』が一等で当選し作家としてデビュー。文章がこんなに金になるのかと驚き、執筆活動に専念。紹介された小説家の尾崎士郎(おざき しろう)にひと目惚れし、再び上京。

1936年(昭和11年)にはファッション雑誌『スタイル』を創刊。画家の東郷青児(とうごう せいじ)と同棲し、その関係を代表作『色ざんげ』(1933~35年)に描く。小説家の北原武夫(きたはら たけお)と結婚、後に離婚。

1970年(昭和45年)に『幸福』で女流文学賞、1972年(昭和47年)に日本芸術院賞を受賞、同年に日本芸術院会員。1982年(昭和57年)に菊池寛賞を受賞。その翌年に発表された『生きて行く私』は自伝的小説として以後宇野の代名詞となる。1990年(平成2年)文化功労者に選出される。

多才で知られ、編集者・着物デザイナー・実業家の顔も持つ。晩年に到るまで旺盛な活動を続けた女性実業家の先駆者でもある。

1996年(平成8年)6月10日、急性肺炎のため東京都港区の虎の門病院で死去。98歳。その他の代表作に『人形師天狗屋久吉』(1942年)や『或る一人の女の話』(1971年)などがある。女性的な情感にあふれた作風で知られる。

リンクWikipediaコトバンク

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カテゴリー「6月の記念日」「今日は何の日

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