東京都小平市津田町に本部を置く学校法人・津田塾大学が制定。
津田梅子(つだ うめこ、1864~1929年)は、日本初の女子留学生の一人で、女性の高等教育に生涯尽力し、日本における女子高等教育の先駆者として、女子英学塾(現:津田塾大学)を創設した。2024年(令和6年)7月3日に発行された五千円札の肖像となり、「紙幣の顔」となったことから、あらためて梅子の功績を顕彰するのが目的。
日付は五千円札が発行された日から7月3日を記念日としたもの。記念日は2025年(令和7年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
津田塾大学(Tsuda University)は、女性の高等教育を目指す私塾「女子英学塾」として、1900年(明治33年)に産声を上げた。創立者・津田梅子は、女性の地位向上こそ日本の発展につながると信じて、「男性と協同して対等に力を発揮できる女性の育成」を目指し、女性の高等教育に生涯を捧げた。
津田梅子の教育姿勢は現在の津田塾大学にしっかりと根づいている。また、梅子の想いは長い歴史の中で脈々と受け継がれ、時代を支える「新しい女性たち」の輩出へとつながった。
そして今、津田塾大学が2030年に向けて目指すのは「変革を担う、女性の育成」である。現代という厳しい時代を見極めながら、時代の要請に応え、新たな道を開拓していく女性を育成していく。
津田梅子は現在の東京都新宿区南町の出身。父は津田家に婿入りした人であり、梅子が生まれた時には江戸幕府に出仕して通訳官を務めていた。梅子は子供の頃、浅草まで踊りの稽古に通っていた。
梅子は留学のために1871年(明治4年)の6歳の時に岩倉使節団に随行して渡米した。女子留学生は梅子を含めて5人だった。アメリカの家庭に預けられ、英語やピアノ、ラテン語、フランス語、自然科学、心理学、芸術などを学んだ。
1882年(明治15年)に17歳の時に日本に帰国し、1885年(明治18年)には伊藤博文の推薦で、学習院女学部から独立して設立された華族女学校の英語教師となった。その後に再び渡米し、ブリンマー大学で生物学を専攻する。梅子は欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性となった。
牧師・教育者の成瀬仁蔵(なるせ じんぞう、1858~1919年)の女子大学創設運動や、1899年(明治32年)の高等女学校令・私立学校令による法整備で女子教育への機運が高まると、梅子は「自らの学校」を開く活動を開始し、女子英学塾を創設した。