昭和時代の俳人・石橋辰之助(いしばし たつのすけ)の1948年(昭和23年)の忌日。
1909年(明治42年)5月2日、東京市下谷区(したやく、現:東京都台東区)に生まれる。別号に竹秋子(ちくしゅうし)。東京・安田工業学校電気科を卒業。
学生時代から俳句雑誌『ホトトギス』に投句。卒業後は照明技師として帝国劇場、神田日活、新宿帝都座に勤め、戦後は日本映画社に勤務、制作課長となる。
1931年(昭和6年)に『ホトトギス』を離れ、水原秋桜子(みずはら しゅうおうし)の俳句雑誌『馬酔木(あしび)』に参加、1933年(昭和8年)に同誌同人。竹秋子の号を用い、山岳俳句において新境地を開く。
1937年(昭和12年)に『馬酔木』を離れ、新興俳句運動・プロレタリア俳句運動に参加。翌年に『京大俳句』に参加。1939年(昭和14年)には西東三鬼(さいとう さんき)・三谷昭(みたに あきら)らと『天香』を創刊するが、1940年(昭和15年)の「新興俳句弾圧事件(京大俳句事件)」に連座し検挙され、『天香』も終刊を余儀なくされる。
戦後、新俳句人連盟に参加し、委員長を務める。1948年(昭和23年)8月21日、急性結核により死去。39歳。句集に『山行』(1935年)、『家』(1940年)、『妻子』(1948年)、『山暦』(1951年)、『定本 石橋辰之助句集』(1969年)などがある。